なぜインドネシアの外食産業が今アツいのか?(2)〜インドネシア外食産業の歴史〜

前回の記事から、なぜインドネシアの外食産業が今アツいのか?について書かせて頂いているが、

  1. 現時点で市場が伸びている
  2. 将来も伸びる可能性が高い
  3. とは言えまだ空いているポジションがある

の最重要項目3について、本日はオリジナル業界マップを使って解説して行きたい。

なお、ルピア円レートは100円=12000Rpで統一している。

 

 

まず、インドネシア外食産業No.1企業であるが、米国Yum! Brands, Inc.(ヤム・ブランズ)が保有する「ケンタッキーフライドチキン(KFC)」のフランチャイズに加盟したPT Fast Food Indonesia Tbk(ファーストフードインドネシア)で、2017年の売上は5兆3026億84百万ルピア(約442億円)である。

 

続いて2位は、こちらもヤム・ブランズが保有する「Pizza Hut(ピザ・ハット)」のフランチャイズに加盟しており、今年インドネシア証券取引所(IDX)に上場を果たしたPT Sarimelati Kencana Tbk(サリムラティ・クンチャナ)で、2017年は 3兆271億ルピア(約252億円)の売上高であった。サリムラティ・クンチャナは今回の資金調達によって、2018年-2019年で合計124店舗の新規出店を計画している。124店舗のうち、25%は通常「ピザ・ハット・レストラン(PHR)」、75%は宅配専門の「ピザ・ハット・デリバリー(PHD)」だという。

 

第3位は、上場していないため正確な数字は分からないが、おそらくサリムラティ・クンチャナと並ぶ形で、米国マクドナルのフランチャイズに加盟するPT Rekso Nasional Food(ルクソ・ナショナル・フード)である。ジェトロの資料によると、2015年で209百万ドルと記載されているので、サリムラティ・クンチャナの規模と近い、もしくは上回っているかもしれない。

 

このトップ3に競合で勢いのある「Domino’s Pizza(ドミノ・ピザ)」と「Burger King(バーガーキング)」を合わせて米国五老星とカテゴライズさせて頂いた。1979年にKFCがオープンしたのを皮切りに、米国ファーストフードブランドが一気に進出し、フライドチキン、ピザ、ハンバーガーが、インドネシアの外食産業をガラリと変えたのである。このファーストフード進出の盛り上がりは、1998年以前のスハルト政権下と、それ以後で2つに分かれる。

 

■第一次ファーストフード進出ブーム

  • KFC(1979)→628店舗
  • ピザ・ハット(1984)→393店舗
  • テキサス・チキン(1984)→59店舗
  • A&W(1985)→250店舗
  • CFC(1989)→258店舗
  • マクドナルド(1991)→181店舗
  • ウェンディーズ(1991)→13店舗

 

そして、アジア通貨危機、スハルト政権交替を乗り越えて、第二次進出ブームがやってくる。

 

■第二次ファーストフード進出ブーム

  • ピッツァ・エクスプレス(2006)→19店舗
  • バーガーキング(2007)→84店舗
  • ドミノ・ピザ(2008)→130店舗
  • モスバーガー(2008)→2店舗
  • ファットバーガー(2009)→2店舗
  • BonChon Chicken(2012)→11店舗
  • カールスジュニア(2013)→12店舗

 

スペースの都合上、マップ上には書けなかったが、「A&W」と「カリフォルニア・フライド・チキン(CFC)」は店舗数で「マクドナルド」を超える規模を持っているので、少し説明したい。まず米国ハンバーガーチェーンのA&Wは、日本人にとって馴染みが無いと思いきや、なんと沖縄県のみで30店舗も出店しているのだ。インドネシアでは、250店舗以上展開しており、今年5月にニューギニア島パプワ州にも進出を果たしている。

 

CFCはIDXに上場しているPT Pioneerindo Gourmet International Tbk(ピオネリンド・グルメ・インターナショナル)が運営するフライドチキンのチェーンであり、2017年のCFC事業の売上は5058億38百万ルピア(約42億円)。ピオネリンド・グルメ・インターナショナルは1983年の設立当時、米国カリフォルニア州の「Pioneer Take Out(パイオニアテイクアウト)」のフランチャイズに加盟しての船出であったが、1989年にフランチャイズ契約を終了し、CFCを自社ブランドとして再出発したのであった、ちゃっかりカリフォルニアの名を入れて(笑)。そして、今や258店舗まで拡大するに至っている。

 

ちなみにピオネリンド・グルメ・インターナショナルは「スガキヤラーメン」を展開するスガキコシステムズ株式会社と合弁会社PT Pioneerindo Sugakico Indonesia(ピオネリンド・スガキコ・インドネシア)を設立し、今年5月にインドネシア1号店をオープンさせている。ラーメンの鶏白湯仕立てのスープは現地パートナー経由で調達できるので、非常に良いパートナーシップに見える。

 

第一次ファーストフード進出ブームを見てみると、やはり早期にオープンさせた企業が、それぞれのカテゴリーでトップを走っているようだ。

 

第二次ファーストフード進出ブームに関しては、店舗数がばらけているが、比較的多店舗展開に成功している「Pizza Express(ピッツァ・エクスプレス)」、「バーガーキング」、「ドミノ・ピザ」は、3社ともPT Mitra Adiperkasa Tbk(MAP)のグループ傘下である。MAPはインドネシア最大のタイヤメーカー、Gajatungal(ガジャ・トゥンガル)の創業者Sjamsul Nursalim(ジャムスル・ヌルサリム)が保有するグループであり、MAPを通してインドネシアのブランドビジネスを支配している。管理するブランドは、飲食はもちろん、ファッション、スポーツ、子ども用品と幅広い。また、そごうや西武など百貨店ブランドも持っている。このMAPが次の大きな変化を捉えていく。

 

次の大きな変化は、2000年代前半から訪れる、コーヒー革命であり、主役の4社を束ねて珈琲四天王と命名させて頂いた。その中でもやはり火付け役は、コーヒーチェーンの世界最大手、Starbucks(スターバックス)である。展開するのは先ほど登場したMAPグループである。コーヒー革命の特徴としては、MAP含め、CT CorpやLippo Group(リッポーグループ)など大財閥が入ってきている点である。CT Corpは、大手スーパーの「トランスマート(旧カルフール)」や、銀行の「バンクメガ」、テレビ局の「トランスTV」を持っており、リッポーグループは、金融から始まり、百貨店大手の「マタハリモール」や、不動産事業で「「リッポー・モール」リッポー・チカラン」「リッポー・カラワチ」などの開発を進めている。

 

財閥について詳しく知りたい方は、拙著のCT Corpについて書いた記事華麗なる財閥シリーズなど参考にして頂きたい。

 

1社異色であるのが、インドネシア産コーヒーショップ「J.CO」だ。美容サロンで成功したJohnney Andrean(ジョニー・アンドレアン)がオーナーである。 彼は飲食分野において、J.CO以外にベーカリーの「Bread Talk(ブレッド・トーク)」にも挑戦している。ブレッド・トークはシンガポール企業のフランチャイズだ。海外からインドネシアに持って来ているわけだが、近年自社ブランドのJ.COをフィリピンなど国外に輸出しているインドネシア期待の星である。

 

インドネシアにコーヒー文化はもともとあったが、基本的に自宅や屋台で楽しむことがほとんどであったため、ただコーヒーを提供するのでは無く、コーヒーを楽しむ空間を提供したスターバックスは富裕層やビジネスマン層を中心に大いに受け入れられた。コーヒー豆の匂いがするお洒落な雰囲気で、おしゃべりやビジネスミーティングを行うという文化は、一気に広まっていった。スターバックススタイルのコーヒーショップは全て無料インターネットサービス完備である。

 

スペースの都合で入らなかった四天王以外のコーヒーショップも以下に記載しておく。

実は火付け役はスターバックスではあるものの、スターバックスができるの11年前にオープンし、現在100店舗まで到達しているローカルコーヒーショップが存在する。インドネシア国内のコーヒー豆流通の60%以上のシェアを持つPT Kapal Api Global(カパル・アピ・グローバル)が展開する「Excelso(エクセルソ)」だ。エクセルソは四天王程の爆発的な成長では無いが、前述のように100店舗まで到達し、グループ全体ではコーヒー豆の流通、インスタントコーヒーの事業が堅調のようである。

 

  • Excelso(1991)→100店舗
  • スターバックス(2002)→326店舗
  • Bengawan Solo Coffee (2003)→30店舗
  • J.CO(2005)→250店舗
  • The Coffee Bean & Tea Leaf(2006年)→108店舗
  • Anomali  Coffee(2007)→11店舗
  • KOI Café(2013)→26店舗
  • Djournal Coffee(2013)→12店舗
  • Caffe bene(2014)→5店舗
  • Caribou Coffee(2015)→7店舗
  • MAXX Coffee(2015)→84店舗
  • サンマルク(2015)→3店舗

 

筆者がジャカルタに初めて降りたった2011年、「MAXX Coffee」を除くコーヒー四天王は、ショッピングモールに行けば必ずどれかは入っていた。特に高級系のショッピングモールに関しては、必ずと言って良い程スターバックスが入っていたと記憶している。ちょうどその頃、ショッピングモールで行列を作る飲食店があった。インドネシア人(特に富裕層)は、日本人のように並んでまで食べ物を食べようとは思わないので、非常に珍しい。その飲食店とは「吉野家」と「ペッパーランチ」である。2010年代から顕著になってきた和食ブームであった。

 

つづく…

 

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インドネシアの華麗なる一族⑤

ウィリアムの父、Tjia Tjoe Bieは中国からインドネシアの西ジャワ州マジャレンカに辿り着き、6人の子供をもうける。

 

長女:Tjia Heng Hwa(Agustien) 

長男:Tjia Kian Liong (William Soeryadjaya)

次女:Tjia Sioe Hwa

三女:Tjia Tjoey Hwa(Budiarti) 

次男:Tjia Kian Tie 

三男:Tjia Kian Joe(Benjamin Suriadjaya)

 

1922年12月20日、Tjia(チア)家の長男として生まれたのが、後にウィリアムを名乗るTjia Kian Liong(謝建隆)である。

 

それぞれ中国名が名付けられたが、独立後のインドネシアにおいて、中国語名はビジネスをするにも生活をするにも難しい部分があり、カッコ内の名前を名乗るようになっていく。カッコが付いていない名前に関しては不明で、判明したものだけ記載した。

 

ちなみに、Tjia Sioe Hwaはバドミントン選手のHans Anwarと結婚し、その間に生まれた娘Jane Anwarは、インドネシア伝説のバドミントン選手Rudy Hartono Kurniawan(ルディ・ハルトノ)と結婚している。ハルトノは1966年、弱冠16歳でデビューした天才少年で、全英選手権男子シングルスを1968年から7連覇を果たし、1975年に決勝戦でデンマークの巨人のSvend Pri(スベン・プリ)に初めて敗れるが、翌年また復活優勝を果たし世界を驚かせた。さらに、妹のUtami Dewi Kinard(ウタミ・デウィ)も凄いバドミントン選手で、世界各国の大会で優勝し、1972年のミュンヘンオリンピックでは日本の中山紀子に次いで銀メダルだった。

 

ウィリアム、Kian Tie、Benjaminの男三兄弟の方は、1957年、Kian Tieの友人Lim Peng Hongを加えて、PT Astra Internasional Inc(アストラインターナショナル)を設立する。アストラはギリシャ神話のAsteraからKian Tieが名付けた。そして、グローバルな会社を目指すためにインターナショナルと付け加えられた。

 

創業の地Jl. Sabang No.36 Aにあるオフィス前にて

 

アストラの大躍進のきっかけは、トヨタとの提携である。

 

創業して約10年間は食料品や日用品などあらゆるものを国外から輸入して販売する貿易事業であったが、初代スカルノ大統領から2代目スハルト大統領に変わる政変の最中、アストラにも転換期が訪れる。当時、スカルノ政権末期に悪化していた経済を立て直すべく、スハルト新政権は経済重視政策に移ろうとしており、インドネシア進出を目論む日米自動車メーカーに対して、政府は「完成車の生産(組み立て)を国内で行うこと」および「販売を国内代理店を通して行うこと」という二つの条件を出していた。これを転機と捉えたウィリアムは、即座に銀行から借り入れを行い、オランダ植民地時代のゼネラルモータースが所有していた自動車組立工場の買収を行った。そして、インドネシア政府との合弁で1969年2月25日にPT Gaya Motor(ガヤ・モーター)を設立し、さらに借り入れを追加して工場の修復まで行った。

 

あとは誰と組むかであるが、ウィリアムはゼネラルモータースに対して自信を持っていた。以前彼らからシボレーのトラック800台を輸入して販売した実績があるからだ。だが、そんな期待も裏目に出てしまう。GMは1958年に輸入許認可第1号を出していたPT Garuda Diesel(ガルーダ・ディーゼル)をパートナーに選んだのだ。しかし、落ち込んではいられない。続いて日産の視察団が日本から来イするということで立ち会ったが、アストラの合弁事業案は受け入れられなかった。

 

この一大事に当時マレーシアに移住していたKian Tieも駆けつけ、彼の協力でインドネシア政府関係者にも会って打開策を探った。そんな中、貿易大臣のSoemitro Djojohadikoesoemo(スミトロ・ジョヨハディクスモ)から吉報が入る。トヨタが、ガヤ・モーターに興味を持っているというのだ。トヨタは1968年にトヨタ自動車販売ジャカルタ駐在員事務所を設置し、現法設立準備を進めており、なんとトヨタのアジア・オセアニア担当責任者である神尾秀雄は日本植民地時代にガヤ・モーターの工場の元マネージャーであった(当時日本軍がトヨタに工場の経営を委託していた)ことからの問い合わせであった。神尾氏は当時社長であった豊田英二の懐刀として海外事業を進めた重要人物である。

 

神尾氏との交渉も上手く行き、ついに1969年7月、アストラはトヨタとMoUの締結に至った。そして、1971年4月12日にPT Toyota Astra Motor(トヨタ・アストラ・モーター)の会社登記、同年12月15日に商業省から認可が下り、営業開始することができたのだ。初代社長はトヨタ側から小山善三が担当し、出資比率はアストラ51%(PT Astra International 36.2%、PT Gaya Motor 14.8%)、トヨタ49%(トヨタ自販24.5%、トヨタ自工24.5%)であった。

 

トヨタ・アストラ・モーター社営業開始時の記念写真。初代社長の小山氏(前列右から4人目)

 

トヨタとの提携をきっかけに、10人そこそこの無名の小さな会社であったアストラは、その後一気に拡大して行く。

 

1970年から5年間の売上成長率は2786%で、1976年にはグループ子会社9社で従業員を7352人も抱えるまでになった。売上も驚くべき数字であるが、特筆すべきは従業員数である。10年間でざっと700倍になっているのだ。しかも、ほぼ企業買収無しでである。当時学校教育環境が十分とは言えなかったインドネシアにおいて、この数字は奇跡としか言いようがない。

 

1969年 PT Gaya Motor設立 (トヨタの車両組立会社)

1971年 PT Federal Motor設立 (ホンダの車両組立会社)

1971年 PT Toyota Astra Motor設立(トヨタの販売会社)

1972年 PT Djaya Pirusa設立(エンジンオイル調達のため)

1972年 PT Inter Astra Motor Works設立(重機販売会社)

1974年 PT Multi Astra設立(車両組立会社)  

1975年 PT Rama Surya Internasional設立  (装置調達のため)

1976年 PT Astra Motor Sales設立(トヨタのディーラー管理会社) 

1976年 PT Astra Graphia設立(富士ゼロックスの販売会社) 

 

提携先はホンダ、コマツ、富士ゼロックス、ダイハツなど日系企業を中心に拡大していく。しかし、拡大の道はやはりいばらの道であった。インドネシア政府は、このアストラの自動車産業を中心とした成長をインドネシア成長の好機と捉え、数々の厳しい要求を突きつけていくことなるのだ。

 

まず1974年、政府は自走可能な完成した車両形態で輸入するCBU(Complete Build-Up)を全面禁止にすると共に、組立前の部品として輸入するCKD(Complete Knock-Down)の輸入形態を義務付け、それに加えて指定部品の現地調達義務化を行った。つまり、なるべくインドネシア国内で生産できるようにし、産業育成と雇用拡大を図ったのだ。トヨタの販売会社が設立されて、たった3年後のことである。そして矢継ぎ早に1976年、CKD輸入関税優遇を行うかたわら,一部のパーツに関して輸入禁止措置がとられた。この短い期間に、一気に国産化のプレッシャーが強まっていく。そしてついに1977年、政府の「カローラの3分の1の価格の車を作って欲しい」との要請に応え、トヨタはインドネシアの国民車となる「Kijang(キジャン)」を生み出したのだ。

 

1977年に発表されたキジャンの引き渡し式。運転席左にスハルト大統領。

 

じゃかるた新聞がトヨタ関係者に行った取材によると、コストを抑え、ブリキの戦車のようないでたちで窓ガラスも、外側のドアノブもない車に対して、日本本社では「こんな車にトヨタのマークは付けられない」とエンジンやトランスミッションの供給を断られたこともあったが、キジャンの生みの親、横井明は「必ずインドネシアのためになる」と説得したそうだ。

 

その後キジャンは1985年に生産累計10万台を達成し、1987年からはインドネシア国外へ年間200台輸出するまでに至っている。この短期間で、インドネシア発の国産車を作り、海外に輸出するまでに成長したのだ。

 

横井氏が考えていた通り、まさに「インドネシアのためになった」のである。

 

貿易会社として創業したアストラが、海外製品の販売代理店・組立工場として大きく成長し、国産製品を生み出せるまでに至った奇跡の大成長であった。

インドネシアの華麗なる一族④

ジャカルタ中心部に位置するスディルマン通りに、来月6月に開業予定のビルがある。

 

 

Astra Tower(アストラタワー)と名付けらているそのビルは、冠名にあるように、インドネシア最大財閥Astra International(アストラインターナショナル)の本社ビルである。自動車、金融、重機、鉱業、農園、物流、不動産など様々な事業を展開し、2017年の売上高は206兆570億ルピア(約1兆7170億円)、純利益は18兆8810億ルピア(約1570億円)を記録する。特にメイン事業の自動車は、2017年のグループ国内販売台数が57万9000台で、インドネシア国内のシェアは54%にものぼる。

 

しかし、このような強大な実績を叩き出すアストラインターナショナルだが、実は大株主はインドネシア人では無い。財務諸表を見てみると、Jardine Cycle Carriage Ltd(ジャーディンサイクルキャリッジ)が、50.11%の株式を保有と記載がある。ジャーディンサイクルキャリッジの株式の75%はJardine Strategic Holdings Limited(ジャーディン・ストラテジック)が保有。そのまたジャーディン・ストラテジックの株式を83.85%を保有しているのはJardine Matheson Holdings Limited(ジャーディン・マセソン)で、ジャーディン・ストラテジックとジャーディン・マセソンは株式持ち合い関係になっていた。

 

 

※ ※ ※

 

 

2016年2月、筆者は香港の地に降り立った。香港の地理は、主に3つの地域(香港島、九龍、新界)から構成され、人口は香港島北部の住宅地と九龍半島に集中している。特に香港島は、香港上海銀行・香港本店ビルや中国銀行タワー、国際金融中心などをはじめとする超高層オフィスビルやホテルが立ち並んでいる。そんな香港島を歩いていると、ある名称を何度も見つけることができる。

怡和大廈(英語名はJardine House)、渣甸橋(ジャーディン・ブリッジ)、渣甸街(ジャーディン・バザール)、渣甸坊(ジャーディン・クレセント)、渣甸山(ジャーディン・ロックアウト)。

 

 

ジャーディンとは香港で物凄い影響力があるようだ。

 

本日は、インドネシア最大財閥アストラとその株主のジャーディングループについて、もう少し調べていくことにする。

 

香港に話を戻す。

 

 

これはJardine House(ジャーディンハウス)である。

178.5メートル(地上52階建)の超高層ビルで、1973年のオープン当時、アジアで最も高いビルであった。

このビルの表示案内の48階に「Jardine, Mathewson & Co., Limited 怡和有限公司」という記載を見つけることができた。

おそらくアストラの財務諸表にあったジャーディン・マセソンのことであろう。

 

 

調べてみると、ジャーディン・マセソンは、イギリスに本社を置き(登記上はバミューダ諸島ハミルトン)、ロンドンと香港に上場している企業であることがわかった。米フォーチュン誌の世界企業番付上位500社の企業ランキング「フォーチュン・グローバル500」(2013年度版)では世界266位の世界的優良企業である。

 

設立の起源は今から170年以上遡ること1832年7月。創業者はスコットランド出身のイギリス東インド会社元船医で貿易商人のウィリアム・ジャーディンと、同じくスコットランド出身で当時中国広州(沙面島)でのアヘン投資で財を築いていたジェームス・マセソンの2人である。

 

ジャーディン・マセソンの創業者2人の名前が由来だったのだ。

 

2人が沙面島で作った貿易商、ジャーディン・マセソン商会は、イギリスの中国進出(当時は植民地時代であるので、侵略の方が意味としては近いかも知れない)に大きな役割を果たしている。1839年にイギリスと清との間にアヘン戦争が勃発。降伏した清政府は、南京条約に基づき香港島をイギリス政府に譲渡し、イギリス政府は香港島の北部にある銅鑼湾をジャーディン・マセソン商会に払い下げを行った。よって、前述の渣甸橋(ジャーディン・ブリッジ)、渣甸街(ジャーディン・バザール)、渣甸坊(ジャーディン・クレセント)など、銅鑼湾近辺にはジャーディンの名が多く残っているのである。

 

ジャーディン・マセソン商会は、1842年に香港島に本社を移動、1844年に中国の拠点も沙面島から上海の共同租界、外灘(バンド)に移し、貿易と海運業でどんどん事業を拡大していった。

 

ジャーディン・マセソン商会の事業拡大は、1854年に江戸幕府が締結した日英和親条約を機に日本にも及ぶ。

 

和親条約によって長崎港と函館港が開港すると、ジャーディン・マセソン商会は、1859年、上海支店にいたイギリス人ウィリアム・ケズィック(ウィリアム・ジャーディンの姉の子)を日本に派遣した。そして、1860年代初頭に横浜居留地の1番地(旧山下町居留地1番館、現山下町一番地)に「ジャーディン・マセソン商会」横浜支店を設立。長崎でも、1859年9月19日に幕末・明治期の重要人物であるトーマス・ブレーク・グラバーがジャーディン・マセソン商会の長崎代理店としてグラバー商会を設立。グラバーは、長州五傑、五代友厚(薩摩)、坂本龍馬(海援隊)、岩崎弥太郎(三菱財閥)等を支援した。

 

遠藤謹助(上段左)、野村弥吉(上段中央)、伊藤俊輔(上段右)、井上聞多(下段左)、山尾庸三(下段右)

 

彼らは長州五傑(長州ファイブ)と呼ばれ、駐日イギリス領事やジャーディン・マセソン商会の協力でイギリス留学を行い、留学中はジェームス・マセソンの甥にあたるヒュー・マセソン(ジャーディン・マセソン商会ロンドン社長)が世話役となった。

 

そして1868年、イギリス政府、ジャーディン・マセソン商会、グラバー商会が支援した薩長を中心とする倒幕側の勝利で、明治政府が発足することになる。さらにその後、急速に力をつけた日本は、1894年日清戦争で戦勝国となり、逆にイギリスを含む欧州列強を脅かす存在となるまでに至った。焦ったフランス、ドイツ、ロシアの三国は日本に圧力を与え(三国干渉)、ドイツは膠州湾、イギリスは威海衛、ロシアは旅順・大連、フランスは広州湾というように、列強4国はそれぞれ租借地を獲得していき中国は半植民地状態となって行った。

 

この中国(清政府)衰退の流れで、1900年前後に多くの華人が安息の地を求めて海外に渡っていくこととなり、インドネシアへもサリム、シナールマス、リッポー、ジャルムなどの財閥創業者の父親の代が当時中国から海を渡っている。アストラ創業者のWilliam Soeryadjaya(ウィリアム・スリヤジャヤ)の父親Tjia Tjoe Bieもその1人であった。

 

アストラについては以前インドネシアの華麗なる一族たち①で触れているため重複するが、次号改めてもう少し深いところまで書いて行きたいと思う。

インドネシアの華麗なる一族たち③

Djarum_logo

ここ数年、インドネシアの富豪番付1位を守り続けているのがハルトノ兄弟です。兄がMichael Bambang Hartono(マイケル・バンバン・ハルトノ)、弟がRobert Budi Hartono(ロバート・ブディ・ハルトノ)です。

 
父親の名はOei Wie Gwan(オエイ・ウェイ・グワン、不明~1963年)。1925年、中部ジャワのレンバンでCap Leoと呼ばれる花火を製造していましたが、日本軍に追放されスマランの西にあるクドゥスに移動。そこで1951年にPT Djarum(ジャルム)を設立し、たばこの製造販売を始めました。レコード針にちなんで名づけられたジャルムは、クドゥスのブティンガンバル通り28番地(現在のヤニ通り28番地)にて、たった10名の小さな会社として始まりました。前回登場したスドノ・サリムもクドゥスでたばこを売っていたことがありますが、たばこビジネスは後にとんでもなく大きな市場に成長します。JTインターナショナルの調査では、2013年3000億本が販売され、東南アジア最大の市場となっています。

 

ジャルムは1998年の通貨危機以降、多角化に成功し、ホテル・不動産事業、エレクトロニクス事業、銀行業、パーム農園事業などを展開していきました。特に有名なのが、インドネシア最大級のショッピングモール「グランドインドネシア」とインドネシア民間最大手のバンク・セントラル・アジア(BCA)の経営権を取得したことです。こうしてジャルムグループとなった巨大財閥は、兄のマイケルが会長、弟のロバートがCEOとなりマネジメントされています。そして、各ビジネスには兄弟の投資会社から出資する形がとられています。

 
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左からオエイ・ウェイ・グワン、ロバート・ブディ・ハルトノ、ヴィクトール

 

ロバートには3人兄弟の息子たちがいます。長男はVictor Rachmat Hartono(ヴィクトール・ラフマット・ハルトノ)、次男はMartin Basuki Hartono(マーティン・バスキ・ハルトノ)、三男がArmand Wahyudi Hartono(アルマンド・ワシュディ・ハルトノ)です。3人はジャルムグループの核となることを期待されており、それぞれ役割が分かれています。長男のヴィクトールはジャルムのCOOと社会貢献に使われるジャルム財団の管理を任されています。次男マーティンはジャルムグループの次なる事業を見つけるべく、新規ビジネス担当としてインターネット産業に力を入れています。そして三男アルマンドは、米国で投資銀行を経験し、最年少でBCAの取締役に入閣しました。

 

アルマンドはインドネシア一の大富豪の息子であるにも関わらず、非常に謙虚な性格だと知られています。ビジネスの原則はいかに支出を抑えて将来の予期せぬ事態に備えるか。そして、余ったお金は将来のために投資してくということをあるインタビューで語っています。そして、父親であるロバートも息子たちの鏡となる存在です。他の大富豪がリムジンを使っていても、トヨタのランドクルーザーに乗り、携帯電話もダイヤなど派手な装飾を好まず、ブラックベリーの初期モデルを長く使っています。食べ物の好き嫌いは無く、大食いはしない。ゴルフ嫌いで、趣味は仕事、仕事、仕事。他の大富豪とは一線を画した存在であり、ビジネスだけでは無く、その性格はしっかり子供に受け継がれていくのです。

インドネシアの華麗なる一族たち②

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■サリムグループ
同ランキング2位のサリムグループは、1997年のアジア通貨危機まで圧倒的1位に君臨していた大財閥です。創業者のSudono Salim(スドノ・サリム、1916年~2012年)は、福建省福清市の農家の3兄弟の次男に生まれました。中国名は林紹良(Liem Sioe Liong)です。1938年、兄に続いて叔父を頼りにジャワ島へ渡り、中部ジャワのクドゥスでタバコやコーヒー豆の商売を行い、商人としての道を歩み始めました。第二次世界大戦後は、オランダとの独立戦争で戦う軍への物資納入を通じて当時ディポヌゴロ師団司令官であった後の大統領スハルトとの人脈を築いていきます。1968年にスハルトが2代目大統領に就任してから約30年間、様々な国家プロジェクトの利権を手にし、グループを大きく成長させました。ところが、1997年のアジア通貨危機でグループは最大の危機を迎えます。

 

通貨危機により、グループの多くの企業の財務体質が悪化し、民間銀行最大手に成長したBCA(バンク・セントラル・アジア)を含む、多くの資産の売却を余儀なくされることとなりました。しかし、スドノの三男Anthony(アンソニー、中国名は林逢生)のもとで何とかグループ最大の危機は乗り切ります。そして、2013年2月、元々危機前に所有していた日産やスズキの現地合弁パートナーであるインドモービルの株式を買い戻して筆頭株主となり、また、BCAの株式も幾分か取得して復活を果たしています。

 

次のサリムグループのリーダーとして期待されているのが、アンソニーの三男であるAxton Salim(アクストン)です。アクストンは1974年生まれで、2002年にコロラド大学ボルダー校を卒業。その後、クレディ・スイスのシンガポール支店で経験を積み、2004年からサリムグループの中核企業インドフードに入社。2009年から現在に至るまでインドフードの取締役を務めています。
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左からスドノ・サリム、アンソニー、アクストン

 

 

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■シナールマスグループ

三大財閥最後は「シナールマスグループ」。創業者は、福建省泉州出身華人Eka Tjipta Widjaya(エカ・チプタ・ウィジャヤ、1923年~)で、中国名は黃亦聰(Oei Ek Tjhong)です。彼は9歳の時、インドネシアに渡ります。非常に貧しい家庭であったため、マカッサルにて小学校卒業後、15歳で砂糖やビスケットを販売するというビジネスをスタートさせていました。その後、彼は1970年にシナールマス社を設立し、一代でパームオイルやココナッツオイルなどの食用油、製紙、そして金融、保険、不動産などの事業も手がける大財閥を築き上げました。シナールマスグループは同族経営が行われており、子供たちはシンガポール、米国、カナダ、日本などに分かれて留学を経験した後、グループの各部門を担当しています。現在は、創業一家長男であり、紙パルプ事業を担当するTeguh Ganda Wijaya(テグー、1944年~)がグループのトップとなっています。

 

エカはたくさんの子供を残しており、ウィジャヤ家は非常に大きなファミリーになっています。Forbesの記事によると15人とありますが、それよりももっと多いという説もあります。前述のテグーが一族のトップとなっているものの、グループ最大の売上高を誇るパームオイル事業はテグーと14歳離れたFranky Oesman Widjaja(フランキー、1958年~)が担当しています。彼は日本への留学経験があり、青山学院大学に留学した後、パームオイル事業を担当し、さらに超高級ショッピングモールのプラザインドネシアの会長なども務めています。

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左から、エカ・ウィジャヤ、テグー、フランキー

 

 

エカの孫の世代ですが、既に頭角を現し、各部門の重要ポジションに就いています。ここでは3人の人物を紹介したいと思います。

 

-Fuganto Widjaja(フガント、1981年?~)
フガントはグループの鉱山開発事業を担当しており、PT Golden Energy Mines Tbkの社長、PT Sinar Mas Multiartha TbkとPT Dian Swastatika Sentosa Powerの取締役を担当し、昨年2015年はバクリー財閥とロスチャイルド財閥が対立しながらも共同運営されていたPT Berau Coal Energy Tbkを引き継き、同社CEOに就任しています。

 

-Michael Jackson Purwanto Widjaja(マイケル、1984年?~)
マイケルは、グループの不動産事業を統括するMuktar Widjaja(ムクタル、1955年~)の息子です。彼は2007年に当時23歳という若さでPT Bumi Serpong Damai Tbk(BSD)の副社長に就任しました。BSDはジャカルタ南西部に位置する新開発地域BSDシティの開発を行い、そこにはイオンがオープンしています。そして、2010年にはグループの不動産部門を取りまとめるSinar Mas Land(シナールマスランド)のCEOに就任しました。

 

-Jesslyne Widjaja(ジョセリン、1984年?~)
ジョセリンは、先ほども登場したパームオイル事業を統括するフランキーの娘です。彼女はシンガポール証券市場上場するGolden Agri-resources LtdのExecutive Director of Corporate Strategy & Business Development(事業開発兼経営戦略担当取締役)という重要ポストに、2014年3月から就いています。
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左から、フガント、マイケル、ジョセリン

 

Tbkは公開株式会社、上場企業を意味し、彼彼女たちはグループの複数上場企業を担当するという重要な役割を担っています。そして、まだまだ30代前半という若さです。

インドネシアの華麗なる一族たち①

「華麗なる一族」と言えば映画やドラマにもなった山崎豊子の小説であり、1965年に起こった山陽特殊製鋼倒産事件を元にしていると言われています。本作の主人公は万俵大介。大介は万俵財閥の発展のために、息子娘たちを財界の有力者と結婚させる、いわゆる閨閥施策を進めていきました。裏切り、憎悪、権力闘争などの人間ドラマがリアルに描かれた作品です。

 

インドネシアにも一族経営で発展する財閥がいくつもあります。毎年発表されるForbesの富豪番付を見ても、上位のほとんどは財閥オーナーで占められています。そして、その財閥企業は一族経営がほとんどです。実際「華麗なる一族」と似ている部分もありますし、もちろんそうでない部分もあります。本連載ではインドネシア版華麗なる一族として、現在のトップ財閥たちが今までどのように歩んできたのかを書いて行きたいと思います。

 

 

 

1842年に終結したアヘン戦争以降、清政府は海外渡航の門戸を大きく開き、移民ブームがおきました。その頃、インドネシアは植民地としてオランダによって長く統制されていた時代です。インドネシアにも多くの華人がやって来ました。後に大きな財閥グループの創設者となるような人もその時期で、インドネシア三大財閥「アストラインターナショナル」「サリムグループ」「シナールマスグループ」の創設者一族たちも、その時期に渡って来たと言われています。

 

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アストラインターナショナル
GLOBE ASIAによる2015年インドネシア企業グループランキングで1位となったアストラグループ創設者のWilliam Soeryadjaya(ウィリアム・スリヤジャヤ、1922年~2010年)は、父親が広東省から移民した華人でした。ウィリアム自身もTjia Kian Liongという中国名を持っています。1957年、彼は仲間たちと貿易商アストラ社(現在のアストラインターナショナルの前身)を創業しました。そして、1960年代末にトヨタ自動車の総代理店になり、1971年にはトヨタと合弁でPT Toyota Astra Motor(トヨタアストラモーター社)を設立するなど、自動車産業を中心にナンバーワンへと駆け上がりました。しかし、グループとしてナンバーワンになったものの、1992年の長男Edward(エドワード)の銀行ビジネスの失敗により、一族はアストラの株式を手放さざるを得なくなりました。よって現在のアストラインターナショナルはスリヤジャヤ一族のものではありません。

 

エドワードにはEdwin(エドウィン)という弟がいました。エドウィンは1998年、Sandiaga Salahudin Uno(サンディガ・ウノ)と投資会社Saratoga Investama Sedaya(サラトガ・インベスタマ・セダヤ、通称サラトガ)を創業し会長に就任、石炭採掘パダン・クルニア(現アダロ・エナジー)も創業し、こちらも会長に就任しました。そして2014年3月、サラトガ傘下のPT Mitra Pinasthika Mustika Tbk(MPM)がPT Nissan Motor Indonesia(日産インドネシア)と提携します。実はMPMはウィリアムが1987年に創設した会社で、現在の会長はエドウィンです。これがスリヤジャヤ家の悲願であったかどうか分かりませんが、再び自動車販売のビジネスを行うことになりました。

 

そのエドウィンは現在66歳。2015年6月、ウィリアムの孫であり、エドウィンの息子であるMichael Soeryadjaya(マイケル)が、サラトガの社長(President Director)に就任し、スリヤジャヤ家のバトンを引き継ぎました。30代前半の若い経営者が次の時代を作っていきます。

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左からウィリアム・スリヤジャヤ、エドウィン、マイケル

日イEC市場比較

インターネット業界において、日本はアメリカから2年遅れていると聞いたことがあります。アメリカで生まれたサービスが、2年後日本にやって来る、あるいは2年後日本でも同じような市場が生まれてくるということでしょうか。

 

インドネシアのような発展途上国を考えると、経済規模、一人当たりの所得、各種インフラの遅れなどから、2年よりももっと遅れていることは想像に容易いでしょう。業界によって違いますが、例えばオンラインショッピングですと、インドネシアは日本に10年程遅れて盛り上がってきました。

 

オンラインショッピングが日本に最初にあらわれたのは、諸説はありますが1993年頃からと言われています。当時はほとんど市場が成長せず、1997年5月1日にモール型ECサイト楽天市場が登場してから一気に時代の流れが変わって行きます。Amazon.comの日本語版サイト「Amazon.co.jp」の登場はその3年後の2000年11月1日です。

 

インドネシアでは、2005年にオランダ人のRemco LupkerとArnold EggがバリでC to C型ECサイトtokobagus.comをオープンさせました(ドメインは2003年に取得されていた)。そこから少し空いて、2009年~2011年にtokopedia、blibli.com、そしてRakuten Belanja Onlineと、続々とプレイヤーが登場します。

 

市場規模に関してはどうでしょうか。日本の経済産業省のデータによると、EC業界の流通総額は2003年4.4兆円から2013年11.2兆と成長し、10年間で約2.5倍になっています。インドネシアは2013年80億ドル(9,600億円)から2016年は250億ドル(3兆円)になると見込まれており、規模で言うとまだまだ15年近くの差がありますが、伸び率は圧倒的にインドネシアです。

 

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2003年度の楽天の業績を調べてみたのですが、EC事業は通期で売上高131.6億円(前年比73.5%増)、営業利益42.9億円(前年比94.9%増)とありました。EC市場黎明期でも30%以上の営業利益率を確保しています。インドネシアではまだそこまでの環境ではありませんが、先ほどの述べたような急激な伸び率を背景に一気に爆発するのか、あるいはまだまだ時間がかかるのか。個人的には2003年の日本の楽天レベルの企業が現れてくるのに少なくともあと2,3年はかかると感じています。

 

その2,3年を長いと感じるのか、もう間もなくと感じるのかは企業によってそれぞれですが、先日楽天はシンガポール、マレーシア、インドネシアのマーケットプレイスの閉鎖を発表しました。しかし、一方でインドネシア財閥大手のCTコープが、EC事業に参入することを明らかにするなど、期待と不安が入り混じっている状況です。

 

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出典:

平成 16 年度電子商取引に関する実態・市場規模調査

Indonesia online commerce to touch $25b by 2016

Indonesian e-commerce market size to double in 2013 to US$8B

楽天、2003年度の売上は前年度比8割増の181億円

楽天が東南アジア各国に展開中のマーケットプレイスを閉鎖、約150人を解雇へ

CT Corp Rambah Bisnis E-Commerce