ウィリアムの父、Tjia Tjoe Bieは中国からインドネシアの西ジャワ州マジャレンカに辿り着き、6人の子供をもうける。
長女:Tjia Heng Hwa(Agustien)
長男:Tjia Kian Liong (William Soeryadjaya)
次女:Tjia Sioe Hwa
三女:Tjia Tjoey Hwa(Budiarti)
次男:Tjia Kian Tie
三男:Tjia Kian Joe(Benjamin Suriadjaya)
1922年12月20日、Tjia(チア)家の長男として生まれたのが、後にウィリアムを名乗るTjia Kian Liong(謝建隆)である。
それぞれ中国名が名付けられたが、独立後のインドネシアにおいて、中国語名はビジネスをするにも生活をするにも難しい部分があり、カッコ内の名前を名乗るようになっていく。カッコが付いていない名前に関しては不明で、判明したものだけ記載した。
ちなみに、Tjia Sioe Hwaはバドミントン選手のHans Anwarと結婚し、その間に生まれた娘Jane Anwarは、インドネシア伝説のバドミントン選手Rudy Hartono Kurniawan(ルディ・ハルトノ)と結婚している。ハルトノは1966年、弱冠16歳でデビューした天才少年で、全英選手権男子シングルスを1968年から7連覇を果たし、1975年に決勝戦でデンマークの巨人のSvend Pri(スベン・プリ)に初めて敗れるが、翌年また復活優勝を果たし世界を驚かせた。さらに、妹のUtami Dewi Kinard(ウタミ・デウィ)も凄いバドミントン選手で、世界各国の大会で優勝し、1972年のミュンヘンオリンピックでは日本の中山紀子に次いで銀メダルだった。
ウィリアム、Kian Tie、Benjaminの男三兄弟の方は、1957年、Kian Tieの友人Lim Peng Hongを加えて、PT Astra Internasional Inc(アストラインターナショナル)を設立する。アストラはギリシャ神話のAsteraからKian Tieが名付けた。そして、グローバルな会社を目指すためにインターナショナルと付け加えられた。
創業の地Jl. Sabang No.36 Aにあるオフィス前にて
アストラの大躍進のきっかけは、トヨタとの提携である。
創業して約10年間は食料品や日用品などあらゆるものを国外から輸入して販売する貿易事業であったが、初代スカルノ大統領から2代目スハルト大統領に変わる政変の最中、アストラにも転換期が訪れる。当時、スカルノ政権末期に悪化していた経済を立て直すべく、スハルト新政権は経済重視政策に移ろうとしており、インドネシア進出を目論む日米自動車メーカーに対して、政府は「完成車の生産(組み立て)を国内で行うこと」および「販売を国内代理店を通して行うこと」という二つの条件を出していた。これを転機と捉えたウィリアムは、即座に銀行から借り入れを行い、オランダ植民地時代のゼネラルモータースが所有していた自動車組立工場の買収を行った。そして、インドネシア政府との合弁で1969年2月25日にPT Gaya Motor(ガヤ・モーター)を設立し、さらに借り入れを追加して工場の修復まで行った。
あとは誰と組むかであるが、ウィリアムはゼネラルモータースに対して自信を持っていた。以前彼らからシボレーのトラック800台を輸入して販売した実績があるからだ。だが、そんな期待も裏目に出てしまう。GMは1958年に輸入許認可第1号を出していたPT Garuda Diesel(ガルーダ・ディーゼル)をパートナーに選んだのだ。しかし、落ち込んではいられない。続いて日産の視察団が日本から来イするということで立ち会ったが、アストラの合弁事業案は受け入れられなかった。
この一大事に当時マレーシアに移住していたKian Tieも駆けつけ、彼の協力でインドネシア政府関係者にも会って打開策を探った。そんな中、貿易大臣のSoemitro Djojohadikoesoemo(スミトロ・ジョヨハディクスモ)から吉報が入る。トヨタが、ガヤ・モーターに興味を持っているというのだ。トヨタは1968年にトヨタ自動車販売ジャカルタ駐在員事務所を設置し、現法設立準備を進めており、なんとトヨタのアジア・オセアニア担当責任者である神尾秀雄は日本植民地時代にガヤ・モーターの工場の元マネージャーであった(当時日本軍がトヨタに工場の経営を委託していた)ことからの問い合わせであった。神尾氏は当時社長であった豊田英二の懐刀として海外事業を進めた重要人物である。
神尾氏との交渉も上手く行き、ついに1969年7月、アストラはトヨタとMoUの締結に至った。そして、1971年4月12日にPT Toyota Astra Motor(トヨタ・アストラ・モーター)の会社登記、同年12月15日に商業省から認可が下り、営業開始することができたのだ。初代社長はトヨタ側から小山善三が担当し、出資比率はアストラ51%(PT Astra International 36.2%、PT Gaya Motor 14.8%)、トヨタ49%(トヨタ自販24.5%、トヨタ自工24.5%)であった。
トヨタ・アストラ・モーター社営業開始時の記念写真。初代社長の小山氏(前列右から4人目)
トヨタとの提携をきっかけに、10人そこそこの無名の小さな会社であったアストラは、その後一気に拡大して行く。
1970年から5年間の売上成長率は2786%で、1976年にはグループ子会社9社で従業員を7352人も抱えるまでになった。売上も驚くべき数字であるが、特筆すべきは従業員数である。10年間でざっと700倍になっているのだ。しかも、ほぼ企業買収無しでである。当時学校教育環境が十分とは言えなかったインドネシアにおいて、この数字は奇跡としか言いようがない。
1969年 PT Gaya Motor設立 (トヨタの車両組立会社)
1971年 PT Federal Motor設立 (ホンダの車両組立会社)
1971年 PT Toyota Astra Motor設立(トヨタの販売会社)
1972年 PT Djaya Pirusa設立(エンジンオイル調達のため)
1972年 PT Inter Astra Motor Works設立(重機販売会社)
1974年 PT Multi Astra設立(車両組立会社)
1975年 PT Rama Surya Internasional設立 (装置調達のため)
1976年 PT Astra Motor Sales設立(トヨタのディーラー管理会社)
1976年 PT Astra Graphia設立(富士ゼロックスの販売会社)
提携先はホンダ、コマツ、富士ゼロックス、ダイハツなど日系企業を中心に拡大していく。しかし、拡大の道はやはりいばらの道であった。インドネシア政府は、このアストラの自動車産業を中心とした成長をインドネシア成長の好機と捉え、数々の厳しい要求を突きつけていくことなるのだ。
まず1974年、政府は自走可能な完成した車両形態で輸入するCBU(Complete Build-Up)を全面禁止にすると共に、組立前の部品として輸入するCKD(Complete Knock-Down)の輸入形態を義務付け、それに加えて指定部品の現地調達義務化を行った。つまり、なるべくインドネシア国内で生産できるようにし、産業育成と雇用拡大を図ったのだ。トヨタの販売会社が設立されて、たった3年後のことである。そして矢継ぎ早に1976年、CKD輸入関税優遇を行うかたわら,一部のパーツに関して輸入禁止措置がとられた。この短い期間に、一気に国産化のプレッシャーが強まっていく。そしてついに1977年、政府の「カローラの3分の1の価格の車を作って欲しい」との要請に応え、トヨタはインドネシアの国民車となる「Kijang(キジャン)」を生み出したのだ。
1977年に発表されたキジャンの引き渡し式。運転席左にスハルト大統領。
じゃかるた新聞がトヨタ関係者に行った取材によると、コストを抑え、ブリキの戦車のようないでたちで窓ガラスも、外側のドアノブもない車に対して、日本本社では「こんな車にトヨタのマークは付けられない」とエンジンやトランスミッションの供給を断られたこともあったが、キジャンの生みの親、横井明は「必ずインドネシアのためになる」と説得したそうだ。
その後キジャンは1985年に生産累計10万台を達成し、1987年からはインドネシア国外へ年間200台輸出するまでに至っている。この短期間で、インドネシア発の国産車を作り、海外に輸出するまでに成長したのだ。
横井氏が考えていた通り、まさに「インドネシアのためになった」のである。
貿易会社として創業したアストラが、海外製品の販売代理店・組立工場として大きく成長し、国産製品を生み出せるまでに至った奇跡の大成長であった。