インドネシアの華麗なる一族④

ジャカルタ中心部に位置するスディルマン通りに、来月6月に開業予定のビルがある。

 

 

Astra Tower(アストラタワー)と名付けらているそのビルは、冠名にあるように、インドネシア最大財閥Astra International(アストラインターナショナル)の本社ビルである。自動車、金融、重機、鉱業、農園、物流、不動産など様々な事業を展開し、2017年の売上高は206兆570億ルピア(約1兆7170億円)、純利益は18兆8810億ルピア(約1570億円)を記録する。特にメイン事業の自動車は、2017年のグループ国内販売台数が57万9000台で、インドネシア国内のシェアは54%にものぼる。

 

しかし、このような強大な実績を叩き出すアストラインターナショナルだが、実は大株主はインドネシア人では無い。財務諸表を見てみると、Jardine Cycle Carriage Ltd(ジャーディンサイクルキャリッジ)が、50.11%の株式を保有と記載がある。ジャーディンサイクルキャリッジの株式の75%はJardine Strategic Holdings Limited(ジャーディン・ストラテジック)が保有。そのまたジャーディン・ストラテジックの株式を83.85%を保有しているのはJardine Matheson Holdings Limited(ジャーディン・マセソン)で、ジャーディン・ストラテジックとジャーディン・マセソンは株式持ち合い関係になっていた。

 

 

※ ※ ※

 

 

2016年2月、筆者は香港の地に降り立った。香港の地理は、主に3つの地域(香港島、九龍、新界)から構成され、人口は香港島北部の住宅地と九龍半島に集中している。特に香港島は、香港上海銀行・香港本店ビルや中国銀行タワー、国際金融中心などをはじめとする超高層オフィスビルやホテルが立ち並んでいる。そんな香港島を歩いていると、ある名称を何度も見つけることができる。

怡和大廈(英語名はJardine House)、渣甸橋(ジャーディン・ブリッジ)、渣甸街(ジャーディン・バザール)、渣甸坊(ジャーディン・クレセント)、渣甸山(ジャーディン・ロックアウト)。

 

 

ジャーディンとは香港で物凄い影響力があるようだ。

 

本日は、インドネシア最大財閥アストラとその株主のジャーディングループについて、もう少し調べていくことにする。

 

香港に話を戻す。

 

 

これはJardine House(ジャーディンハウス)である。

178.5メートル(地上52階建)の超高層ビルで、1973年のオープン当時、アジアで最も高いビルであった。

このビルの表示案内の48階に「Jardine, Mathewson & Co., Limited 怡和有限公司」という記載を見つけることができた。

おそらくアストラの財務諸表にあったジャーディン・マセソンのことであろう。

 

 

調べてみると、ジャーディン・マセソンは、イギリスに本社を置き(登記上はバミューダ諸島ハミルトン)、ロンドンと香港に上場している企業であることがわかった。米フォーチュン誌の世界企業番付上位500社の企業ランキング「フォーチュン・グローバル500」(2013年度版)では世界266位の世界的優良企業である。

 

設立の起源は今から170年以上遡ること1832年7月。創業者はスコットランド出身のイギリス東インド会社元船医で貿易商人のウィリアム・ジャーディンと、同じくスコットランド出身で当時中国広州(沙面島)でのアヘン投資で財を築いていたジェームス・マセソンの2人である。

 

ジャーディン・マセソンの創業者2人の名前が由来だったのだ。

 

2人が沙面島で作った貿易商、ジャーディン・マセソン商会は、イギリスの中国進出(当時は植民地時代であるので、侵略の方が意味としては近いかも知れない)に大きな役割を果たしている。1839年にイギリスと清との間にアヘン戦争が勃発。降伏した清政府は、南京条約に基づき香港島をイギリス政府に譲渡し、イギリス政府は香港島の北部にある銅鑼湾をジャーディン・マセソン商会に払い下げを行った。よって、前述の渣甸橋(ジャーディン・ブリッジ)、渣甸街(ジャーディン・バザール)、渣甸坊(ジャーディン・クレセント)など、銅鑼湾近辺にはジャーディンの名が多く残っているのである。

 

ジャーディン・マセソン商会は、1842年に香港島に本社を移動、1844年に中国の拠点も沙面島から上海の共同租界、外灘(バンド)に移し、貿易と海運業でどんどん事業を拡大していった。

 

ジャーディン・マセソン商会の事業拡大は、1854年に江戸幕府が締結した日英和親条約を機に日本にも及ぶ。

 

和親条約によって長崎港と函館港が開港すると、ジャーディン・マセソン商会は、1859年、上海支店にいたイギリス人ウィリアム・ケズィック(ウィリアム・ジャーディンの姉の子)を日本に派遣した。そして、1860年代初頭に横浜居留地の1番地(旧山下町居留地1番館、現山下町一番地)に「ジャーディン・マセソン商会」横浜支店を設立。長崎でも、1859年9月19日に幕末・明治期の重要人物であるトーマス・ブレーク・グラバーがジャーディン・マセソン商会の長崎代理店としてグラバー商会を設立。グラバーは、長州五傑、五代友厚(薩摩)、坂本龍馬(海援隊)、岩崎弥太郎(三菱財閥)等を支援した。

 

遠藤謹助(上段左)、野村弥吉(上段中央)、伊藤俊輔(上段右)、井上聞多(下段左)、山尾庸三(下段右)

 

彼らは長州五傑(長州ファイブ)と呼ばれ、駐日イギリス領事やジャーディン・マセソン商会の協力でイギリス留学を行い、留学中はジェームス・マセソンの甥にあたるヒュー・マセソン(ジャーディン・マセソン商会ロンドン社長)が世話役となった。

 

そして1868年、イギリス政府、ジャーディン・マセソン商会、グラバー商会が支援した薩長を中心とする倒幕側の勝利で、明治政府が発足することになる。さらにその後、急速に力をつけた日本は、1894年日清戦争で戦勝国となり、逆にイギリスを含む欧州列強を脅かす存在となるまでに至った。焦ったフランス、ドイツ、ロシアの三国は日本に圧力を与え(三国干渉)、ドイツは膠州湾、イギリスは威海衛、ロシアは旅順・大連、フランスは広州湾というように、列強4国はそれぞれ租借地を獲得していき中国は半植民地状態となって行った。

 

この中国(清政府)衰退の流れで、1900年前後に多くの華人が安息の地を求めて海外に渡っていくこととなり、インドネシアへもサリム、シナールマス、リッポー、ジャルムなどの財閥創業者の父親の代が当時中国から海を渡っている。アストラ創業者のWilliam Soeryadjaya(ウィリアム・スリヤジャヤ)の父親Tjia Tjoe Bieもその1人であった。

 

アストラについては以前インドネシアの華麗なる一族たち①で触れているため重複するが、次号改めてもう少し深いところまで書いて行きたいと思う。

Hirotaka Ogura

2007年4月にアドウェイズ入社。東京、大阪、名古屋、上海を経て、2012年7月からインドネシア駐在。2017年同社を退職し、インドネシアにて外食、ファッション、コスメなどへの投資を始める。専門はデジタルマーケティング、財閥、外食産業、ファッション産業。

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