なぜインドネシアの外食産業が今アツいのか?(2)〜インドネシア外食産業の歴史〜

前回の記事から、なぜインドネシアの外食産業が今アツいのか?について書かせて頂いているが、

  1. 現時点で市場が伸びている
  2. 将来も伸びる可能性が高い
  3. とは言えまだ空いているポジションがある

の最重要項目3について、本日はオリジナル業界マップを使って解説して行きたい。

なお、ルピア円レートは100円=12000Rpで統一している。

 

 

まず、インドネシア外食産業No.1企業であるが、米国Yum! Brands, Inc.(ヤム・ブランズ)が保有する「ケンタッキーフライドチキン(KFC)」のフランチャイズに加盟したPT Fast Food Indonesia Tbk(ファーストフードインドネシア)で、2017年の売上は5兆3026億84百万ルピア(約442億円)である。

 

続いて2位は、こちらもヤム・ブランズが保有する「Pizza Hut(ピザ・ハット)」のフランチャイズに加盟しており、今年インドネシア証券取引所(IDX)に上場を果たしたPT Sarimelati Kencana Tbk(サリムラティ・クンチャナ)で、2017年は 3兆271億ルピア(約252億円)の売上高であった。サリムラティ・クンチャナは今回の資金調達によって、2018年-2019年で合計124店舗の新規出店を計画している。124店舗のうち、25%は通常「ピザ・ハット・レストラン(PHR)」、75%は宅配専門の「ピザ・ハット・デリバリー(PHD)」だという。

 

第3位は、上場していないため正確な数字は分からないが、おそらくサリムラティ・クンチャナと並ぶ形で、米国マクドナルのフランチャイズに加盟するPT Rekso Nasional Food(ルクソ・ナショナル・フード)である。ジェトロの資料によると、2015年で209百万ドルと記載されているので、サリムラティ・クンチャナの規模と近い、もしくは上回っているかもしれない。

 

このトップ3に競合で勢いのある「Domino’s Pizza(ドミノ・ピザ)」と「Burger King(バーガーキング)」を合わせて米国五老星とカテゴライズさせて頂いた。1979年にKFCがオープンしたのを皮切りに、米国ファーストフードブランドが一気に進出し、フライドチキン、ピザ、ハンバーガーが、インドネシアの外食産業をガラリと変えたのである。このファーストフード進出の盛り上がりは、1998年以前のスハルト政権下と、それ以後で2つに分かれる。

 

■第一次ファーストフード進出ブーム

  • KFC(1979)→628店舗
  • ピザ・ハット(1984)→393店舗
  • テキサス・チキン(1984)→59店舗
  • A&W(1985)→250店舗
  • CFC(1989)→258店舗
  • マクドナルド(1991)→181店舗
  • ウェンディーズ(1991)→13店舗

 

そして、アジア通貨危機、スハルト政権交替を乗り越えて、第二次進出ブームがやってくる。

 

■第二次ファーストフード進出ブーム

  • ピッツァ・エクスプレス(2006)→19店舗
  • バーガーキング(2007)→84店舗
  • ドミノ・ピザ(2008)→130店舗
  • モスバーガー(2008)→2店舗
  • ファットバーガー(2009)→2店舗
  • BonChon Chicken(2012)→11店舗
  • カールスジュニア(2013)→12店舗

 

スペースの都合上、マップ上には書けなかったが、「A&W」と「カリフォルニア・フライド・チキン(CFC)」は店舗数で「マクドナルド」を超える規模を持っているので、少し説明したい。まず米国ハンバーガーチェーンのA&Wは、日本人にとって馴染みが無いと思いきや、なんと沖縄県のみで30店舗も出店しているのだ。インドネシアでは、250店舗以上展開しており、今年5月にニューギニア島パプワ州にも進出を果たしている。

 

CFCはIDXに上場しているPT Pioneerindo Gourmet International Tbk(ピオネリンド・グルメ・インターナショナル)が運営するフライドチキンのチェーンであり、2017年のCFC事業の売上は5058億38百万ルピア(約42億円)。ピオネリンド・グルメ・インターナショナルは1983年の設立当時、米国カリフォルニア州の「Pioneer Take Out(パイオニアテイクアウト)」のフランチャイズに加盟しての船出であったが、1989年にフランチャイズ契約を終了し、CFCを自社ブランドとして再出発したのであった、ちゃっかりカリフォルニアの名を入れて(笑)。そして、今や258店舗まで拡大するに至っている。

 

ちなみにピオネリンド・グルメ・インターナショナルは「スガキヤラーメン」を展開するスガキコシステムズ株式会社と合弁会社PT Pioneerindo Sugakico Indonesia(ピオネリンド・スガキコ・インドネシア)を設立し、今年5月にインドネシア1号店をオープンさせている。ラーメンの鶏白湯仕立てのスープは現地パートナー経由で調達できるので、非常に良いパートナーシップに見える。

 

第一次ファーストフード進出ブームを見てみると、やはり早期にオープンさせた企業が、それぞれのカテゴリーでトップを走っているようだ。

 

第二次ファーストフード進出ブームに関しては、店舗数がばらけているが、比較的多店舗展開に成功している「Pizza Express(ピッツァ・エクスプレス)」、「バーガーキング」、「ドミノ・ピザ」は、3社ともPT Mitra Adiperkasa Tbk(MAP)のグループ傘下である。MAPはインドネシア最大のタイヤメーカー、Gajatungal(ガジャ・トゥンガル)の創業者Sjamsul Nursalim(ジャムスル・ヌルサリム)が保有するグループであり、MAPを通してインドネシアのブランドビジネスを支配している。管理するブランドは、飲食はもちろん、ファッション、スポーツ、子ども用品と幅広い。また、そごうや西武など百貨店ブランドも持っている。このMAPが次の大きな変化を捉えていく。

 

次の大きな変化は、2000年代前半から訪れる、コーヒー革命であり、主役の4社を束ねて珈琲四天王と命名させて頂いた。その中でもやはり火付け役は、コーヒーチェーンの世界最大手、Starbucks(スターバックス)である。展開するのは先ほど登場したMAPグループである。コーヒー革命の特徴としては、MAP含め、CT CorpやLippo Group(リッポーグループ)など大財閥が入ってきている点である。CT Corpは、大手スーパーの「トランスマート(旧カルフール)」や、銀行の「バンクメガ」、テレビ局の「トランスTV」を持っており、リッポーグループは、金融から始まり、百貨店大手の「マタハリモール」や、不動産事業で「「リッポー・モール」リッポー・チカラン」「リッポー・カラワチ」などの開発を進めている。

 

財閥について詳しく知りたい方は、拙著のCT Corpについて書いた記事華麗なる財閥シリーズなど参考にして頂きたい。

 

1社異色であるのが、インドネシア産コーヒーショップ「J.CO」だ。美容サロンで成功したJohnney Andrean(ジョニー・アンドレアン)がオーナーである。 彼は飲食分野において、J.CO以外にベーカリーの「Bread Talk(ブレッド・トーク)」にも挑戦している。ブレッド・トークはシンガポール企業のフランチャイズだ。海外からインドネシアに持って来ているわけだが、近年自社ブランドのJ.COをフィリピンなど国外に輸出しているインドネシア期待の星である。

 

インドネシアにコーヒー文化はもともとあったが、基本的に自宅や屋台で楽しむことがほとんどであったため、ただコーヒーを提供するのでは無く、コーヒーを楽しむ空間を提供したスターバックスは富裕層やビジネスマン層を中心に大いに受け入れられた。コーヒー豆の匂いがするお洒落な雰囲気で、おしゃべりやビジネスミーティングを行うという文化は、一気に広まっていった。スターバックススタイルのコーヒーショップは全て無料インターネットサービス完備である。

 

スペースの都合で入らなかった四天王以外のコーヒーショップも以下に記載しておく。

実は火付け役はスターバックスではあるものの、スターバックスができるの11年前にオープンし、現在100店舗まで到達しているローカルコーヒーショップが存在する。インドネシア国内のコーヒー豆流通の60%以上のシェアを持つPT Kapal Api Global(カパル・アピ・グローバル)が展開する「Excelso(エクセルソ)」だ。エクセルソは四天王程の爆発的な成長では無いが、前述のように100店舗まで到達し、グループ全体ではコーヒー豆の流通、インスタントコーヒーの事業が堅調のようである。

 

  • Excelso(1991)→100店舗
  • スターバックス(2002)→326店舗
  • Bengawan Solo Coffee (2003)→30店舗
  • J.CO(2005)→250店舗
  • The Coffee Bean & Tea Leaf(2006年)→108店舗
  • Anomali  Coffee(2007)→11店舗
  • KOI Café(2013)→26店舗
  • Djournal Coffee(2013)→12店舗
  • Caffe bene(2014)→5店舗
  • Caribou Coffee(2015)→7店舗
  • MAXX Coffee(2015)→84店舗
  • サンマルク(2015)→3店舗

 

筆者がジャカルタに初めて降りたった2011年、「MAXX Coffee」を除くコーヒー四天王は、ショッピングモールに行けば必ずどれかは入っていた。特に高級系のショッピングモールに関しては、必ずと言って良い程スターバックスが入っていたと記憶している。ちょうどその頃、ショッピングモールで行列を作る飲食店があった。インドネシア人(特に富裕層)は、日本人のように並んでまで食べ物を食べようとは思わないので、非常に珍しい。その飲食店とは「吉野家」と「ペッパーランチ」である。2010年代から顕著になってきた和食ブームであった。

 

つづく…

 

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★現在クラウドファンディングに挑戦中★

インドネシアで食革命「料理学校設立プロジェクト」

 

なぜインドネシアの外食産業が今アツいのか?(1)〜市場調査編〜

筆者は現在、
インドネシアで食革命「料理学校設立プロジェクト」

というタイトルでクラウドファンディングに挑戦しているが、その挑戦の背景として「インドネシアの外食産業が今アツい!」と冒頭から書かせて頂いている。

本日は、なぜアツいのかについて詳しくこのブログで述べていこうと思う。

 

まず、アツいの定義であるが、

  1. 現時点で市場が伸びている
  2. 将来も伸びる可能性が高い
  3. とは言えまだ空いているポジションがある

の3つが揃っていることとしたい。

 

現時点で伸びていて、将来も伸びる可能性が高い市場なんて、絶対人気市場で競合蠢くレッドオーシャンに違いがないと言われるかもしれない。そんなうまい話は無いと。当てはまる市場を探してみると、1と2は中国が当てはまるかもしれない。しかし、既に日系企業もかなりの出店していて、中国国内企業もかなり強いので3は厳しそうである。

 

それではウォーミングアップがてらに、現在日系上場外食企業の中で海外事業が好調な2社、「トリドール」と「吉野家」の出店実績を見てみよう。

 

トリドール公式ホームページより

 

まずはトリドールが展開する「丸亀製麺」の出店実績から。2017年3月末締めの1年間で、やはり中国がダントツ1位の25の出店が確認できる。しかし、16店閉店しているので、結構難しいようにも見える。少し離れて2位のタイには10店舗出店。同じく閉店も多く、7店舗閉めており、10マイナス7で3店舗の純増である。

 

次に、やっとインドネシアが出てくる。5店舗出店して閉店は0。つまりそのまま5店舗純増。累積出店数も38店舗で、中国に次いで多い。

 

吉野家ホールディングス公式ホームページより

 

次に、今年国内外で2000店舗出店を果たした吉野家ホールディングスの出店実績を見てみよう。実は2000店舗到達時点で、海外店舗は837店と半数近くまで達しているのである。

 

この表を見てみると、吉野家(牛丼店舗のみ)は2018年1月から6月までの半年間、海外787店舗から817店舗まで30店舗増加させており、そのうち11店舗はインドネシアであるというのだ。他の東南アジアの国を見ていると、タイが1店舗増えているだけである。

トリドールも吉野家も、海外事業へのインドネシアの貢献度は結構高そうに見える。

 

インドネシア市場に対する期待が少し高まったところで、

  1. 現時点で市場が伸びている
  2. 将来も伸びる可能性が高い
  3. とは言えまだ空いているポジションがある

の3項目をもっと詳しく見ていきたいと思う。

 

ただ、1-2に関しては、世の中でたくさん議論されて来ており、GDPや人口ぐらいは検索するとすぐ出てくるので、今回は既に世に出回っている資料の重要部分だけをピックアップして解説する形を取らせて頂き、最も重要かつ情報もあまり出回っていない3に注力していきたい。市場全体が伸びているのはわかっているけど、そこから先が…という読者が多いと思うのだ。

 

解説する資料であるが、ちょうど昨年2017年9月、日本貿易振興機構(ジェトロ)が凄く詳細で分かりやすい資料を発表している。

拡大するASEAN市場へのサービス業進出 ~地域横断的な視点からサービス業進出・拡大の方策を探る~ 

 

時間のある方は、1ページ目からインドネシアの外食産業を説明している43ページまで一通り読んで頂きたい。

 

  1. 2億5000万人以上の人口規模と富士山型の人口構造
  2. 首都圏3000万人を超える都市人口
  3. ジャカルタ首都特別州約1000万人の1人あたりのGDPは約14000ドル

 

前半ページで特に注目すべきは、上記3点で、特に都市別で非常に詳しい情報が記載されている。

 

首都圏3000万人というユーロモニターの調査に驚いた方も多いと思うが、facebook広告のエリアセグメント配信で、ジャカルタ中心地から半径40kmのエリアを設定すると、2800万人に広告配信できるので、首都圏3000万人超えは信用できると思われる。3000万人は、マレーシア一国と同じ規模で、もはやジャカルタという都市は国レベルの規模と考えて良い。それでいて人口構造は富士山型なので、将来的にもまだまだ期待できる。

この巨大な人口規模と購買力は外食産業にどのような影響を与えるのだろうか。

 

外食産業の市場規模(総売上)、成長見通し

 

基本的には東南アジア各国どこも伸びていて、やはり人口規模で圧倒的なインドネシアが33,584百万ドル(約2兆8000億円)で東南アジア1位の規模を誇り、2020年には41,843百万ドル(約3兆4900億円)まで伸びることが期待されている。個人的には、日本の5分の1程度のサイズ(5兆円)には既に到達していると感じているが、これはおそらく屋台レベルのお店を加算していないためだと考えられる。インドネシアの屋台市場は非常に大きいことは、居住者であれば想像に難くない。以前ユーロモニターが、インドネシアには約20万のレストラン(屋台を除く)があると発表していたが、個人的には屋台はその10倍の200万店舗あたりになると予想している。ちなみに日本の食べログ登録店舗数が87万店舗である。

 

伸び率に関しても、インドネシアF&B協会のAdhi Lukman会長によると、2018年のF&B産業は10%の伸びを予想していることから、もう少しあるのではないかと思われる。また、特にジャカルタ首都圏に偏った情報ではあるが、飲食店レビューサイトを展開する「Qraved」は、2009年から2014年で高級レストランの数が2.5倍になったと発表し、競合サイトの「Zomato」も今年は毎月200店舗のレストランの登録純増数があると営業担当者が言っていた。

 

上のグラフに関しては、ある程度同じ条件下で比較しているので、東南アジア各国の比較としては凄く参考になるが、インドネシアにおいては、実際もっと大きくて伸びているのではないかというのが、筆者の見解である。

 

ここまでが現時点で市場が伸びていて、将来も伸びる可能性が高いという話であったが、次はメインディッシュのポジショニングである。

 

メインということで、今回はオリジナルの外食産業業界マップを気合いを入れて作成した。それを一気に書いてしまおうと考えていたが、テキストでの解説が長くなってしまったことと、さらにまだ調査中の部分という理由から、本記事を(1)として、回を分けてポストさせて頂きたい。

インドネシアプロダクト革命

前回の記事で、小さな飲食店や屋台でもGO FOODを使ってたくさんの人に販売し、人気店にもなれるという事例を紹介したが、本記事では飲食以外のカテゴリーにも広げて書いていく。飲食以外でも、小資本で商品化してたくさんの人に販売することが可能な時代なのだ。まさにプロダクト革命が今起きている。

 

 

筆者がプロダクト革命を目の当たりにしたのは2017年11月2日、同年できたばかりのショッピングモールPIK Avenueの1フロアを貸し切って行われた「Brightspot」というインドネシア最大級のフリマイベントである。Pop Up MarketやBazarをそのままカタカナにしても意味が伝わらないと思いフリマとしたが、要は自分で作った食べ物やコスメ、ファッションなどを販売する本気のフリマである。Brightspotは2009年から毎年開かれており、開始当初は23ブランドで3000人を集めていたのが、昨年は180ものブランドが出店し、来場者数は4日間で5万人を超えたようだ。その5万人の客層であるが、見た目は20代の若者が多く、皆オシャレに気を遣っており、セレブのような雰囲気を醸し出すような人もたくさん見かけた。彼ら彼女らが、まだ世間では有名になっていないブランドをたくさん購入して帰るのである。この熱気を見たとき、筆者はまさにプロダクト革命を肌で感じた。

 

 

仕掛け人はインドネシアのトップDJの1人にあげられるAnton Wirjono(アントン・ウィルジョノ)と、その家族や友人、計5人で構成される共同創業者たちである。

 

Brightspotの成り立ちを調べて見ると、アントンの人生経験が色濃く反映されていることがわかった。彼の最初の大きな学びは、1994年、米カリフォルニア州メンロー大学卒業後にチャレンジしたDJイベントである。アントンはイベント会場を借りて、自らDJパフォーマンスを行い、入場料を1人20ドル徴収し3000人を集めることでイベントを成功させた。この時アントンは自分が情熱を向けたものが収益に変わる様を見て、大きな喜びを感じたという。この成功体験に自信をつけ、インドネシアに帰国してからもDJの世界に進んでいく。

 

Brightspotが生まれた背景も、インドネシアのクリエイターの情熱を支援したいという想いがあったに違いない。Brightspot創業者メンバーたちは。2010年に300ものブランドを集めたセレクトショップ「The Goods Dept」をオープンさせるのだが、ブランドの85%はインドネシアの地元ブランドである。

 

アントンは地元ブランドの難しさをいくつか指摘している。

①地元ブランドはチープな印象がある
②有名にならなければ、ショッピングモールで扱ってもらうことはできない
③近年H&Mやユニクロが進出し、競争が激しくなっている 

 

それらの問題の解決方法がThe Goods Deptに詰まっている。まず、The Goods Deptが出店している店舗はショッピングモールの中でも、ハイクラスの部類を選定している。さらに、取り扱うブランドに関しては、質の高い革新的なブランドを選定。高級で高品質なイメージを印象付け、画一的なファストファッションと差別化をはかっていくというわけである。The Goods Deptが高級ショッピングモールに出店できているのは、アントンのDJとしての知名度とネットワークが活きていると本人も語っている。Brightspotに関しても、高級シッピングモールで開催しており、The Goods Deptと方向性は同じだ。

 

このBrightspotとThe Goods Deptが起こすプロダクト革命を通して、有名になった地元ブランドがある。

昨年のBrightspotにも出店していた「Public Culture」だ。

Public Cultureは2015年に立ち上がったインドネシアの地元ブランドであり、The Goods Deptで顧客の支持を得て、現在単独で路面店をオープンさせるまでに至った。さらに驚いたことに、アジアを中心に大人気のメンズファッションメディア「Hypebeast」にインドネシアの新鋭ストリートブランドとして、現在まで2度も記事に取り上げられている。筆者も愛読しているが、まさかインドネシアという単語が現れるとは思ってもみなかった。

 

飲食以外にも、成功事例が出始めたプロダクト革命。今後が非常に楽しみであるし、自らもこの波に乗りたいと強く思う。

 

最後に、Brightspotイベントで撮影した写真をいくつか紹介しておく。

 

 

冠スポンサーはGo jekのライバルであるGrab。

来場者が会場のフロアに上がって最初に目にするのは、駐車場にずらっと並べられた屋台スタイルの飲食店ブースたち。鳥の唐揚げや点心(ディムサム)、スナックやスイーツなど、ストリートフード系がほとんどであった。

駐車場を越えると、ゲートがありチケットを見せて会場に入ることができる。会場前には長い廊下があり、そこではコスメや小物が並んでいたり、その場の調理の必要が無いプリンやパンなども並んでいる。コスメに関しては、メイクアップ系、美容オイル、石鹸などが多い。

廊下から会場に入ると、中はほとんどがファッション系のブースで占められている。衣類はもちろんのこと、アクセサリー、靴、水着、サングラス、財布やカバンなど幅広く、衣類も女性用が多いと思いきや、結構男性用も見かけることができた。

全体的に飲食、コスメ、ファッションのカテゴリーに分けることができて、出展数の比率としては、飲食3:コスメ2:ファッション5であろうか。

大きなインスタグラムの風船。インスタグラムもプロダクト革命を後押しする重要なツールである。インスタグラム広告は個人でも利用できて、且つたくさんの人に商品をアピールすることができる。

インドネシア宅配革命②〜フードデリバリー市場編〜

ジャカルタの渋滞は世界最悪クラスと言われている。INRIX Global Traffic Scorecardの最新のデータによると、ジャカルタは世界1360都市のうち12位、アジアではバンコクに次いで2番目に渋滞が深刻だとされている。例えば、車で5km移動するだけで、1時間以上かかることもざらにあるのだ。人間の歩行スピードは一般的に4km/時と言われているので、ちょっと早足で歩いた方が速いくらいだ。筆者もGo-jek(ゴジェック)が出てくる前はスケジュール調整に非常に苦労した。しかし、今ではアプリで5分以内にバイクが飛んできて、5kmの距離も車の間をすり抜けて10-15分で到着させてくれて、非常に便利である。

 


ジャカルタの渋滞(筆者撮影)

 

前回ご説明したように、ゴジェックが運ぶのは人だけでは無い。

今回はゴジェックの中で最も利用されているサービスの1つであるGO FOODをご紹介していく。

 

GO FOODはゴジェックが初めてアプリをローンチして約3ヶ月後の2015年4月に、23カテゴリーに分類された15000のレストランを掲載してスタートした。提携では無く掲載としたのは、15000のレストランのうちのほとんどがゴーフード側が一方的に登録しただけだと思われるからだ。筆者も実際に複数の店舗から、古いメニューがずっと残っており困っているとの相談を受けたことがある。まさに力技である。

 

GO FOODが出てくるまでフードデリバリーサービスが無かったかと言えば全くそうではない。

インドネシアにはマクドナルド、バーガーキング、KFC、吉野家、ピザハットなどのファーストフード店がたくさん進出しており、もちろんデリバリーサービスを行なっている。インドネシアの外食産業関係者によるとピザハット路面店の売上の7割はデリバリーによるものだという。また、日本のほっかほっか亭とは無関係だが、地元企業が運営するHoka-Hoka-Bentoも弁当デリバリーを盛んに行なっている。

 


フードパンダのドライバー達(参照:JKTGO.com)

 

スタートアップ界でも例外では無い。

GO FOODが現れる前のフードデリバリー市場は、2011年にMichael Saputraが設立した「Klik Eat(クリックイート)」、2012年に進出した独ロケットインターネットグループ傘下の「Foodpanda(フードパンダ)」の2強であった。どちらも自社で宅配バイクを保有し、各レストランと提携を行なっていた。筆者も2013-2014年あたりはクリックイートを利用していた。理由は大戸屋の弁当が食べられたからである。忙しい時にオフィスまでしっかりとした和食を届けてくれるのは非常に有り難かった。両社ともレストランの数が非常に多かったと記憶しているが、調べてみるとピーク時は1000近くのレストランと提携を行なっていたようだ。しかし、2015年以降、力技のゴジェックは一気にフードデリバリー市場を支配していく。メインは乗客を乗せて運ぶことなので、圧倒的に生産性が高く、アイドルタイムの待機時間も必要が無い。そして何よりネットワークしているバイクの数が違うのだ。

 

結局フードパンダはGO FOODの波に押されて2016年10月にサービスを終了し、会社もクローズしてしまう。しかし一方でクリックイートの方は個人向けから法人向けに事業をシフトすることで息を吹き返している。法人向けだと発注単価を上げることができたり、営業担当がつくことでリピート率も上げやすくなるというメリットが考えられる。

 


2016年当時のBerry Kitchenの弁当(参照:Tribun News)

 

創業当初から法人を狙ったフードデリバリーも存在する。2012年にCynthia Tenggaraが設立した「Berry Kitchen」だ。彼女たちはジャカルタで働く500万人の会社員をターゲットとしている弁当デリバリーで、オンライン上で10種類以上の惣菜をカスタマイズして注文できるのが特徴だ。西ジャカルタに自社のキッチンとバイクを保有しており、毎日決まった時間に配送している。現在、有名シェフが考案した料理を取り揃えており、利用者を飽きさせないように工夫を行なっているようだ。他には創業2015年でジョグジャカルタ発の「Kulina」が最近ジャカルタで攻勢を仕掛けて来ている。KulinaはBerry Kichenと違って、キッチンやバイクを自社で保有せず、キッチンはパートナーを複数抱え、配送は外部の業者に委託している。筆者の知人でBerry KitchenとKulinaの両方から営業を受けているという会社もあったので、少しずつ競争が激しくなってきているのかもしれない。

 

話をGO FOODに戻す。

2015年4月に15000のレストランを掲載して開始したGO FOODであるが、2018年6月現在では12万5000まで拡大している。ユーロモニターが2010年に行った調査によると、インドネシアの飲食店の数(屋台は含まない)は19万8000店なので、正確に比較はできないものの相当な数であることはわかる。今では掲載店舗はマーチャントとして管理する体制ができつつあり、登録や掲載内容の変更などサポートチームが存在する。ただ、迅速に対応してくれるというのはとてもじゃないが言えない。筆者も最近登録の申請を行ったが、登録完了まで2ヶ月以上を用した。どんどん申請が増えているのかもしれないが、もう少し頑張って欲しいところである。

 

そのような登録がごった返すGO FOODであるが、ごった返すには理由がある。マーチャントの中で、一気に売上を上げて人気店にのし上がった事例や大儲けした事例が出てきており、その成功事例に続こうと飲食店が群がってきているのだ。ゴジェックは人気店をブログで紹介しているのだが、筆者が調査した店舗も含め、いくつか成功事例をご紹介する。

 

■TUBO

「TUBO」は飲食店にとって非常に重要な立地と価格の常識を打ち破った牛丼店である。まずTUBOの店舗があるPasar Santa(パサール・サンタ)は特に良い立地という訳では無く、筆者が最近訪れた際にも閑散としていた。パサールとはインドネシアの伝統的な市場という意味で、ここパサール・サンタは出店スペースの家賃を落とすことによって若者が集まり、賑わった時期もあったが今は静かである。次に価格であるが、パサールに訪れる人は所得が中間層より下の層で、1回の食事は1万ルピア~2万ルピア(100円~200円)が一般的。しかし、TUGUは55000Rp(約500円)の牛丼1本で勝負しているのだ。吉野家の牛丼ですら300円強という市場の中、これが何と1日100食以上売れているのだから驚きである。売上のほとんどはGO FOOD経由とのことだ。単純計算で500円×100食×営業日25日間=月商125万円である。しかも、人件費は月10万円程度度、家賃は年5万円程なので、材料費が高くついたとしてもとんでもない利益率である。

 

■Flipburger

インドネシアではマクドナルドやバーガーキングが既に多くの店舗を増やしているように、ハンバーガーは非常に人気である。そんな中、新しいハンバーガーとして登場したのが「Flipburger」だ。このお店はオープン当初からネット広告で集客し、店舗ではドリンク飲み放題、アイスクリーム食べ放題を用意するなどして、まず路面店で一気に火がついた。2017年初めに筆者も訪れたが、店内では長い行列ができていて、席も満席であったことを記憶している。このような長蛇の列があった場合に活躍するのがGO FOODである。当たり前だが、GO FOODであれば自らが狭い店内で長いこと並ぶ必要も無い。人気店にゴジェックドライバーが列をなすことはインドネシアでは既に日常の光景となっている。日本からPABLOが進出した時もそうだ。オープン当初は長蛇の列ができて、そこに緑のジャケットを着た人がたくさん並んだのだ。FlipburgerもPABLOもそうだったように、インドネシアで人気店を作る場合、いかに人気店に見せるかが重要である。

 

■Pizza Place

前述のハンバーガーと並んでインドネシアで人気なのが、ピザである。Pizza PlaceはNYC(ニューヨークシティ)スタイルのピザを売りにしているテイクアウト中心のピザ屋だ。店舗スペースは非常に小さく、席はカウンターのみの5席ほどしか無い。この小さなお店が月に何百万円も売るというのだ。Flipburgerもそうであったが、人気ファーストフード店が作った市場にスタートアップとして入っていく手法は非常に効果的に見える。インターネットが無かった時代は、マクドナルドやピザハットのようなのブランド力は強大であったが、今ではインターネットを使って顧客に直接アプローチしたり口コミを発生させることもできるのだ。このPizza Placeはオンライン上でのPRが非常にうまく行っており、NYCスタイルのピザというワードでいくつかニュース記事を発見することができた。また、店内とお店の入り口が非常におしゃれで、その場で写真をとってインスタグラムにポストする人がたくさんいるのだ。

 

■Toko Kopi Tuku

最後はドリンク系の成功事例である。この「Toko Kopi Tuku」、見た目は普通のコーヒーなのだが非常に売れているのだ。実際店舗に訪れると、ゴージェックのドライバーで溢れていた。そして驚いたのが、何とGO FOODで買える時間帯の制限を示した看板が立っていたのだ。ゴジェックドライバーで溢れて実際に店舗に来た人が買えないということだろうか。飲んでみると確かに味は美味しいし、価格は18000ルピア(約150円)で非常に安い。スターバックスが300円以上するので、味だけで比べると良いのかもしれない。このお店の火付け役は何とインドネシアの大統領Jokowiである。彼が来店したことは地元新聞でも記事になっている。


Toko Kopi Tukuに来店するJokowi大統領(中央)(参照:Liptan6)

 

このようにGO FOODができたおかげで、大きな資本を持たない小さな飲食店でも、人気店になって成功できる時代が到来している。大企業もうかうかしていられない。小さな飲食店が頑張ることによって、大企業もまた改善を重ね、切磋琢磨して社会が良くなっていく。それは非常に良いことだ。実際筆者自身も、このゴージェックが起こす宅配革命を目の当たりにして、フードトラック(移動車販売)の立ち上げを行なっている。今回紹介した事例を元にさらに研究を重ね、自身のフードトラックで検証を行い、それもまたシェアしていきたいと思う。

 

最後に告知をさせて頂きたい。

2018年6月現在、筆者はこの宅配革命を好機と捉え、ジャカルタでの料理学校設立を企画している。

来月7月からクラウドファンディングでの資金調達を考えており、共感、賛同頂ける方は是非支援をお願いしたい。

 

■インドネシア料理学校設立プロジェクトについて

https://startupcookingacademia.studio.design

インドネシア宅配革命①

最近インドネシアに行ったことがある人なら街中で緑のジャケットを着ているバイク運転手を見かけたことがあるだろう。彼らはタクシー配車サービスのGo jekかGrabのどちらかに属しており、アプリですぐ呼び出すことができる。前者のGo jekは今回ご紹介するインドネシア宅配革命の火付け役で、短期間で一気にインドネシアで知られるようになった地元企業である。本日は、そのGo jekの歴史を当時の市場背景を踏まえて書いて行きたい。

 

 

Go-Jekは2010年にNadiem Makarim(ナディーム・マカリム)によって設立された。ナディームは海外留学経験があり、米国ブラウン大学卒業後の2006年、大手コンサル会社のマッキンゼーに就職している。約3年間の勤務経験後、ハーバード大学にてMBAを取得。Go-jekは在学中にインドネシアで登記し、2011年から電話でバイクタクシー配車サービスを行うようになっていた。ちなみにGo jekという名前は、バイクタクシーの一般名称であるOjek(オジェック)に由来する。

大学卒業後は、Go-jekを細々と走らせつつも、ファッションECのZalora Indonesia立ち上げにマネージングダイレクターとして参画する。Zaloraの在籍期間は1年も満たない短い期間だったが、その後インドネシアのスタートアップ環境に身を置きながら、大きな変化を目の当たりにしていく。

 

筆者が初めてインドネシアの首都ジャカルタに降り立ったのは2011年11月だった。その頃はIT起業ブームで、いたるところでスタートアップのカンファレンスやピッチが行われていた。10代20代の若者が自分達でサービスを作り、目をキラキラさせてそのサービスの強みを説明する。当時海外からの出資やM&Aが相次いでおり、2010年5月にインドネシア版Four Squareの「Koprol」を米ヤフーに売却、2011年4月にインドネシア版グルーポン「Disdus」がサービス立ち上げから1年も経たずに本家グルーポンに売却など、皆が一攫千金事例を目指しているように見えた。(その頃の起業ブームやDisdusについては、2014年の記事に少し書いている)。当時グルーポン系も多かったが、EC系、メディア系、ゲーム系なども多く立ち上がっていた。しかし、ナディームは単なる海外サービスのコピーでは無く、インドネシアに根付いたオジェックへのこだわりを持って進んでいく。

eMarketerと筆者が独自に入手したデータを元に作成

 

IT起業ブームが落ち着きを見せ始めた頃、インドネシアのスタートアップ界ではスマートフォンの爆発的な普及が注目されていた。特に2014年、4000万台あたりを超えた頃であろうか。少し景色が変わって来た。自分の周りでもスマホを使う人が増えて来て、Clash of ClansやCandy Crushなどの海外ゲームアプリをプレイしたりしていた。ゲーム以外ではメッセンジャーが良く使われるアプリであったが、メッセンジャーは少々複雑で、Black Berry端末で、Black Berry Messenngerを使っている人が多く、2013年の7月段階ではまだスマホの約半数はBlack Berryであった。そこからAndroidが一気に攻勢をかけ、さらにBlack Berry自身がAndroid端末でメッセンジャーアプリをローンチしたこともあり、1年後にはAndroid端末がスマホの約半数のシェアを獲得するまでになっていた。

 

 

そんな勢いづくスマホ市場を見てか、2014年8月、タクシー配車アプリを手がける世界最大手の米Uberがインドネシアに進出を果たす。2010年に配車サービスを開始したUberは、当時ヨーロッパ、インド、アフリカに市場を拡大し、インドネシア進出の前月には中国進出にも進出しており、海外攻勢を強めているところであった。そして、当時のUberの評価額は170億ドルに達していた。ナディームはこのUberの進出をどう見ていたかわからないが、スマホの普及からUberの進出で、配車アプリの可能性を感じていたに違いない。Uberの進出から5ヶ月後の2015年1月、Go-Jekはスマホアプリをローンチしたのだ。

 

 

アプリローンチの時点で、人を乗せて運ぶサービス(後のGO-RIDE)以外に、物を運ぶサービス(後のGO-SEND)と運転手に買い物を依頼するサービス(後のGO-MART)も同時オープンさせている。Uberタクシーにはできないバイクタクシーならではのサービスである。そして、2015年内に食べ物を運ぶ「GO-FOOD」、大きい荷物を運ぶ「GO-BOX」、マッサージ師を運ぶ「GO-MASSAGE」、メイクアップアーティストを運ぶ「GO-GLAM」、清掃員を運ぶ「GO-CLEAN」、バス停まで乗客を運ぶ「GO-BUSWAY」など全てGO-〇〇で統一された全9サービスを稼働させたのだ。そして、2016年にはUberの競合となる「GO CAR」もローンチさせている。

 

では、利用数はどうだろうか。アプリローンチから1年後の2016年1月の実績は、なんと1050万回の予約がされているというのである。1日34万回のという計算だ。

 

もちろんバイクタクシー配車市場をGo-jekが1社で独占していた訳では無い。最大のライバルは冒頭にも登場したソフトバンクも出資するGrabというマレーシア発の企業で、2015年5月にGrabBikeでインドネシア進出を果たしている。他にはインドネシアタクシー最大手のBlue Birdが始めた「Blu-Jek」、ユニークなものだと女性専用の「LedyJek」、イスラム教女性専用の「OjekSyari」など少なく見積もっても10社以上の類似業者が参入しており、2015年はインドネシアバイクタクシー業界が活発に動いた1年であった。

 

そして2016年8月、Go jekは5億5000万ドルの資金調達を行い、評価額は13億ドル以上とのニュースがスタートアップ界を駆け巡る。資金調達2ヶ月前の6月、ナディームへのインタビューによると、Go jekの運転手はインドネシア国内で20万人、1ヶ月の予約件数は2000万回以上とのことで、半年で予約件数を2倍に成長させていたのだ。調達金額はともかく、世界の投資家から大きな期待を得るのも頷ける成長である。

 

その後も快進撃は続き、アプリローンチからの2年後の2017年1月、アプリダウンロード数3300万達成。大雑把に計算するとインドネシア人の2人に1人はGo jekのアプリをダウンロードしていることになる。

2017年5月には中国のインターネット巨人 Tencent(騰訊)から13億ドルを調達、評価額は30億ドルに。今年2018年には前回前々回の記事に登場したインドネシアNo.1企業アストラやジャルムなどから15億ドルを調達。

 

そして現在。2018年6月時点でのGo jekのWEBサイトには30万人の運転手と契約しているとある。実際に30万人という数字を見なくても、緑のジャケットを着たGo jekドライバーはジャカルタの街に根をはり、大統領も言うようにGo jekは市民にとってなくてはならない存在になっている。

 

 

このGo jekのサービスの中でGo jekが最も力を入れているサービスの1つが、GO FOODである。GO FOODはレストランやカフェなどの法人や屋台を運営している個人がマーチャントとしてGO FOODに登録し、アプリ利用者がドライバーを通してマーチャントの商品を注文できるサービスだ。実は、そのマーチャント登録数が現在12万5000を超えており、マーチャントの中では月100万円を超えるような売上を叩きだす小さなお店が出て来ているのだ。次回は、このGO FOODが活性化させるフードデリバリー産業に焦点を当てて、成功事例を紹介していく。

インドネシアの華麗なる一族⑤

ウィリアムの父、Tjia Tjoe Bieは中国からインドネシアの西ジャワ州マジャレンカに辿り着き、6人の子供をもうける。

 

長女:Tjia Heng Hwa(Agustien) 

長男:Tjia Kian Liong (William Soeryadjaya)

次女:Tjia Sioe Hwa

三女:Tjia Tjoey Hwa(Budiarti) 

次男:Tjia Kian Tie 

三男:Tjia Kian Joe(Benjamin Suriadjaya)

 

1922年12月20日、Tjia(チア)家の長男として生まれたのが、後にウィリアムを名乗るTjia Kian Liong(謝建隆)である。

 

それぞれ中国名が名付けられたが、独立後のインドネシアにおいて、中国語名はビジネスをするにも生活をするにも難しい部分があり、カッコ内の名前を名乗るようになっていく。カッコが付いていない名前に関しては不明で、判明したものだけ記載した。

 

ちなみに、Tjia Sioe Hwaはバドミントン選手のHans Anwarと結婚し、その間に生まれた娘Jane Anwarは、インドネシア伝説のバドミントン選手Rudy Hartono Kurniawan(ルディ・ハルトノ)と結婚している。ハルトノは1966年、弱冠16歳でデビューした天才少年で、全英選手権男子シングルスを1968年から7連覇を果たし、1975年に決勝戦でデンマークの巨人のSvend Pri(スベン・プリ)に初めて敗れるが、翌年また復活優勝を果たし世界を驚かせた。さらに、妹のUtami Dewi Kinard(ウタミ・デウィ)も凄いバドミントン選手で、世界各国の大会で優勝し、1972年のミュンヘンオリンピックでは日本の中山紀子に次いで銀メダルだった。

 

ウィリアム、Kian Tie、Benjaminの男三兄弟の方は、1957年、Kian Tieの友人Lim Peng Hongを加えて、PT Astra Internasional Inc(アストラインターナショナル)を設立する。アストラはギリシャ神話のAsteraからKian Tieが名付けた。そして、グローバルな会社を目指すためにインターナショナルと付け加えられた。

 

創業の地Jl. Sabang No.36 Aにあるオフィス前にて

 

アストラの大躍進のきっかけは、トヨタとの提携である。

 

創業して約10年間は食料品や日用品などあらゆるものを国外から輸入して販売する貿易事業であったが、初代スカルノ大統領から2代目スハルト大統領に変わる政変の最中、アストラにも転換期が訪れる。当時、スカルノ政権末期に悪化していた経済を立て直すべく、スハルト新政権は経済重視政策に移ろうとしており、インドネシア進出を目論む日米自動車メーカーに対して、政府は「完成車の生産(組み立て)を国内で行うこと」および「販売を国内代理店を通して行うこと」という二つの条件を出していた。これを転機と捉えたウィリアムは、即座に銀行から借り入れを行い、オランダ植民地時代のゼネラルモータースが所有していた自動車組立工場の買収を行った。そして、インドネシア政府との合弁で1969年2月25日にPT Gaya Motor(ガヤ・モーター)を設立し、さらに借り入れを追加して工場の修復まで行った。

 

あとは誰と組むかであるが、ウィリアムはゼネラルモータースに対して自信を持っていた。以前彼らからシボレーのトラック800台を輸入して販売した実績があるからだ。だが、そんな期待も裏目に出てしまう。GMは1958年に輸入許認可第1号を出していたPT Garuda Diesel(ガルーダ・ディーゼル)をパートナーに選んだのだ。しかし、落ち込んではいられない。続いて日産の視察団が日本から来イするということで立ち会ったが、アストラの合弁事業案は受け入れられなかった。

 

この一大事に当時マレーシアに移住していたKian Tieも駆けつけ、彼の協力でインドネシア政府関係者にも会って打開策を探った。そんな中、貿易大臣のSoemitro Djojohadikoesoemo(スミトロ・ジョヨハディクスモ)から吉報が入る。トヨタが、ガヤ・モーターに興味を持っているというのだ。トヨタは1968年にトヨタ自動車販売ジャカルタ駐在員事務所を設置し、現法設立準備を進めており、なんとトヨタのアジア・オセアニア担当責任者である神尾秀雄は日本植民地時代にガヤ・モーターの工場の元マネージャーであった(当時日本軍がトヨタに工場の経営を委託していた)ことからの問い合わせであった。神尾氏は当時社長であった豊田英二の懐刀として海外事業を進めた重要人物である。

 

神尾氏との交渉も上手く行き、ついに1969年7月、アストラはトヨタとMoUの締結に至った。そして、1971年4月12日にPT Toyota Astra Motor(トヨタ・アストラ・モーター)の会社登記、同年12月15日に商業省から認可が下り、営業開始することができたのだ。初代社長はトヨタ側から小山善三が担当し、出資比率はアストラ51%(PT Astra International 36.2%、PT Gaya Motor 14.8%)、トヨタ49%(トヨタ自販24.5%、トヨタ自工24.5%)であった。

 

トヨタ・アストラ・モーター社営業開始時の記念写真。初代社長の小山氏(前列右から4人目)

 

トヨタとの提携をきっかけに、10人そこそこの無名の小さな会社であったアストラは、その後一気に拡大して行く。

 

1970年から5年間の売上成長率は2786%で、1976年にはグループ子会社9社で従業員を7352人も抱えるまでになった。売上も驚くべき数字であるが、特筆すべきは従業員数である。10年間でざっと700倍になっているのだ。しかも、ほぼ企業買収無しでである。当時学校教育環境が十分とは言えなかったインドネシアにおいて、この数字は奇跡としか言いようがない。

 

1969年 PT Gaya Motor設立 (トヨタの車両組立会社)

1971年 PT Federal Motor設立 (ホンダの車両組立会社)

1971年 PT Toyota Astra Motor設立(トヨタの販売会社)

1972年 PT Djaya Pirusa設立(エンジンオイル調達のため)

1972年 PT Inter Astra Motor Works設立(重機販売会社)

1974年 PT Multi Astra設立(車両組立会社)  

1975年 PT Rama Surya Internasional設立  (装置調達のため)

1976年 PT Astra Motor Sales設立(トヨタのディーラー管理会社) 

1976年 PT Astra Graphia設立(富士ゼロックスの販売会社) 

 

提携先はホンダ、コマツ、富士ゼロックス、ダイハツなど日系企業を中心に拡大していく。しかし、拡大の道はやはりいばらの道であった。インドネシア政府は、このアストラの自動車産業を中心とした成長をインドネシア成長の好機と捉え、数々の厳しい要求を突きつけていくことなるのだ。

 

まず1974年、政府は自走可能な完成した車両形態で輸入するCBU(Complete Build-Up)を全面禁止にすると共に、組立前の部品として輸入するCKD(Complete Knock-Down)の輸入形態を義務付け、それに加えて指定部品の現地調達義務化を行った。つまり、なるべくインドネシア国内で生産できるようにし、産業育成と雇用拡大を図ったのだ。トヨタの販売会社が設立されて、たった3年後のことである。そして矢継ぎ早に1976年、CKD輸入関税優遇を行うかたわら,一部のパーツに関して輸入禁止措置がとられた。この短い期間に、一気に国産化のプレッシャーが強まっていく。そしてついに1977年、政府の「カローラの3分の1の価格の車を作って欲しい」との要請に応え、トヨタはインドネシアの国民車となる「Kijang(キジャン)」を生み出したのだ。

 

1977年に発表されたキジャンの引き渡し式。運転席左にスハルト大統領。

 

じゃかるた新聞がトヨタ関係者に行った取材によると、コストを抑え、ブリキの戦車のようないでたちで窓ガラスも、外側のドアノブもない車に対して、日本本社では「こんな車にトヨタのマークは付けられない」とエンジンやトランスミッションの供給を断られたこともあったが、キジャンの生みの親、横井明は「必ずインドネシアのためになる」と説得したそうだ。

 

その後キジャンは1985年に生産累計10万台を達成し、1987年からはインドネシア国外へ年間200台輸出するまでに至っている。この短期間で、インドネシア発の国産車を作り、海外に輸出するまでに成長したのだ。

 

横井氏が考えていた通り、まさに「インドネシアのためになった」のである。

 

貿易会社として創業したアストラが、海外製品の販売代理店・組立工場として大きく成長し、国産製品を生み出せるまでに至った奇跡の大成長であった。

インドネシアの華麗なる一族④

ジャカルタ中心部に位置するスディルマン通りに、来月6月に開業予定のビルがある。

 

 

Astra Tower(アストラタワー)と名付けらているそのビルは、冠名にあるように、インドネシア最大財閥Astra International(アストラインターナショナル)の本社ビルである。自動車、金融、重機、鉱業、農園、物流、不動産など様々な事業を展開し、2017年の売上高は206兆570億ルピア(約1兆7170億円)、純利益は18兆8810億ルピア(約1570億円)を記録する。特にメイン事業の自動車は、2017年のグループ国内販売台数が57万9000台で、インドネシア国内のシェアは54%にものぼる。

 

しかし、このような強大な実績を叩き出すアストラインターナショナルだが、実は大株主はインドネシア人では無い。財務諸表を見てみると、Jardine Cycle Carriage Ltd(ジャーディンサイクルキャリッジ)が、50.11%の株式を保有と記載がある。ジャーディンサイクルキャリッジの株式の75%はJardine Strategic Holdings Limited(ジャーディン・ストラテジック)が保有。そのまたジャーディン・ストラテジックの株式を83.85%を保有しているのはJardine Matheson Holdings Limited(ジャーディン・マセソン)で、ジャーディン・ストラテジックとジャーディン・マセソンは株式持ち合い関係になっていた。

 

 

※ ※ ※

 

 

2016年2月、筆者は香港の地に降り立った。香港の地理は、主に3つの地域(香港島、九龍、新界)から構成され、人口は香港島北部の住宅地と九龍半島に集中している。特に香港島は、香港上海銀行・香港本店ビルや中国銀行タワー、国際金融中心などをはじめとする超高層オフィスビルやホテルが立ち並んでいる。そんな香港島を歩いていると、ある名称を何度も見つけることができる。

怡和大廈(英語名はJardine House)、渣甸橋(ジャーディン・ブリッジ)、渣甸街(ジャーディン・バザール)、渣甸坊(ジャーディン・クレセント)、渣甸山(ジャーディン・ロックアウト)。

 

 

ジャーディンとは香港で物凄い影響力があるようだ。

 

本日は、インドネシア最大財閥アストラとその株主のジャーディングループについて、もう少し調べていくことにする。

 

香港に話を戻す。

 

 

これはJardine House(ジャーディンハウス)である。

178.5メートル(地上52階建)の超高層ビルで、1973年のオープン当時、アジアで最も高いビルであった。

このビルの表示案内の48階に「Jardine, Mathewson & Co., Limited 怡和有限公司」という記載を見つけることができた。

おそらくアストラの財務諸表にあったジャーディン・マセソンのことであろう。

 

 

調べてみると、ジャーディン・マセソンは、イギリスに本社を置き(登記上はバミューダ諸島ハミルトン)、ロンドンと香港に上場している企業であることがわかった。米フォーチュン誌の世界企業番付上位500社の企業ランキング「フォーチュン・グローバル500」(2013年度版)では世界266位の世界的優良企業である。

 

設立の起源は今から170年以上遡ること1832年7月。創業者はスコットランド出身のイギリス東インド会社元船医で貿易商人のウィリアム・ジャーディンと、同じくスコットランド出身で当時中国広州(沙面島)でのアヘン投資で財を築いていたジェームス・マセソンの2人である。

 

ジャーディン・マセソンの創業者2人の名前が由来だったのだ。

 

2人が沙面島で作った貿易商、ジャーディン・マセソン商会は、イギリスの中国進出(当時は植民地時代であるので、侵略の方が意味としては近いかも知れない)に大きな役割を果たしている。1839年にイギリスと清との間にアヘン戦争が勃発。降伏した清政府は、南京条約に基づき香港島をイギリス政府に譲渡し、イギリス政府は香港島の北部にある銅鑼湾をジャーディン・マセソン商会に払い下げを行った。よって、前述の渣甸橋(ジャーディン・ブリッジ)、渣甸街(ジャーディン・バザール)、渣甸坊(ジャーディン・クレセント)など、銅鑼湾近辺にはジャーディンの名が多く残っているのである。

 

ジャーディン・マセソン商会は、1842年に香港島に本社を移動、1844年に中国の拠点も沙面島から上海の共同租界、外灘(バンド)に移し、貿易と海運業でどんどん事業を拡大していった。

 

ジャーディン・マセソン商会の事業拡大は、1854年に江戸幕府が締結した日英和親条約を機に日本にも及ぶ。

 

和親条約によって長崎港と函館港が開港すると、ジャーディン・マセソン商会は、1859年、上海支店にいたイギリス人ウィリアム・ケズィック(ウィリアム・ジャーディンの姉の子)を日本に派遣した。そして、1860年代初頭に横浜居留地の1番地(旧山下町居留地1番館、現山下町一番地)に「ジャーディン・マセソン商会」横浜支店を設立。長崎でも、1859年9月19日に幕末・明治期の重要人物であるトーマス・ブレーク・グラバーがジャーディン・マセソン商会の長崎代理店としてグラバー商会を設立。グラバーは、長州五傑、五代友厚(薩摩)、坂本龍馬(海援隊)、岩崎弥太郎(三菱財閥)等を支援した。

 

遠藤謹助(上段左)、野村弥吉(上段中央)、伊藤俊輔(上段右)、井上聞多(下段左)、山尾庸三(下段右)

 

彼らは長州五傑(長州ファイブ)と呼ばれ、駐日イギリス領事やジャーディン・マセソン商会の協力でイギリス留学を行い、留学中はジェームス・マセソンの甥にあたるヒュー・マセソン(ジャーディン・マセソン商会ロンドン社長)が世話役となった。

 

そして1868年、イギリス政府、ジャーディン・マセソン商会、グラバー商会が支援した薩長を中心とする倒幕側の勝利で、明治政府が発足することになる。さらにその後、急速に力をつけた日本は、1894年日清戦争で戦勝国となり、逆にイギリスを含む欧州列強を脅かす存在となるまでに至った。焦ったフランス、ドイツ、ロシアの三国は日本に圧力を与え(三国干渉)、ドイツは膠州湾、イギリスは威海衛、ロシアは旅順・大連、フランスは広州湾というように、列強4国はそれぞれ租借地を獲得していき中国は半植民地状態となって行った。

 

この中国(清政府)衰退の流れで、1900年前後に多くの華人が安息の地を求めて海外に渡っていくこととなり、インドネシアへもサリム、シナールマス、リッポー、ジャルムなどの財閥創業者の父親の代が当時中国から海を渡っている。アストラ創業者のWilliam Soeryadjaya(ウィリアム・スリヤジャヤ)の父親Tjia Tjoe Bieもその1人であった。

 

アストラについては以前インドネシアの華麗なる一族たち①で触れているため重複するが、次号改めてもう少し深いところまで書いて行きたいと思う。

インドネシアの華麗なる一族たち③

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ここ数年、インドネシアの富豪番付1位を守り続けているのがハルトノ兄弟です。兄がMichael Bambang Hartono(マイケル・バンバン・ハルトノ)、弟がRobert Budi Hartono(ロバート・ブディ・ハルトノ)です。

 
父親の名はOei Wie Gwan(オエイ・ウェイ・グワン、不明~1963年)。1925年、中部ジャワのレンバンでCap Leoと呼ばれる花火を製造していましたが、日本軍に追放されスマランの西にあるクドゥスに移動。そこで1951年にPT Djarum(ジャルム)を設立し、たばこの製造販売を始めました。レコード針にちなんで名づけられたジャルムは、クドゥスのブティンガンバル通り28番地(現在のヤニ通り28番地)にて、たった10名の小さな会社として始まりました。前回登場したスドノ・サリムもクドゥスでたばこを売っていたことがありますが、たばこビジネスは後にとんでもなく大きな市場に成長します。JTインターナショナルの調査では、2013年3000億本が販売され、東南アジア最大の市場となっています。

 

ジャルムは1998年の通貨危機以降、多角化に成功し、ホテル・不動産事業、エレクトロニクス事業、銀行業、パーム農園事業などを展開していきました。特に有名なのが、インドネシア最大級のショッピングモール「グランドインドネシア」とインドネシア民間最大手のバンク・セントラル・アジア(BCA)の経営権を取得したことです。こうしてジャルムグループとなった巨大財閥は、兄のマイケルが会長、弟のロバートがCEOとなりマネジメントされています。そして、各ビジネスには兄弟の投資会社から出資する形がとられています。

 
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左からオエイ・ウェイ・グワン、ロバート・ブディ・ハルトノ、ヴィクトール

 

ロバートには3人兄弟の息子たちがいます。長男はVictor Rachmat Hartono(ヴィクトール・ラフマット・ハルトノ)、次男はMartin Basuki Hartono(マーティン・バスキ・ハルトノ)、三男がArmand Wahyudi Hartono(アルマンド・ワシュディ・ハルトノ)です。3人はジャルムグループの核となることを期待されており、それぞれ役割が分かれています。長男のヴィクトールはジャルムのCOOと社会貢献に使われるジャルム財団の管理を任されています。次男マーティンはジャルムグループの次なる事業を見つけるべく、新規ビジネス担当としてインターネット産業に力を入れています。そして三男アルマンドは、米国で投資銀行を経験し、最年少でBCAの取締役に入閣しました。

 

アルマンドはインドネシア一の大富豪の息子であるにも関わらず、非常に謙虚な性格だと知られています。ビジネスの原則はいかに支出を抑えて将来の予期せぬ事態に備えるか。そして、余ったお金は将来のために投資してくということをあるインタビューで語っています。そして、父親であるロバートも息子たちの鏡となる存在です。他の大富豪がリムジンを使っていても、トヨタのランドクルーザーに乗り、携帯電話もダイヤなど派手な装飾を好まず、ブラックベリーの初期モデルを長く使っています。食べ物の好き嫌いは無く、大食いはしない。ゴルフ嫌いで、趣味は仕事、仕事、仕事。他の大富豪とは一線を画した存在であり、ビジネスだけでは無く、その性格はしっかり子供に受け継がれていくのです。

インドネシアの華麗なる一族たち②

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■サリムグループ
同ランキング2位のサリムグループは、1997年のアジア通貨危機まで圧倒的1位に君臨していた大財閥です。創業者のSudono Salim(スドノ・サリム、1916年~2012年)は、福建省福清市の農家の3兄弟の次男に生まれました。中国名は林紹良(Liem Sioe Liong)です。1938年、兄に続いて叔父を頼りにジャワ島へ渡り、中部ジャワのクドゥスでタバコやコーヒー豆の商売を行い、商人としての道を歩み始めました。第二次世界大戦後は、オランダとの独立戦争で戦う軍への物資納入を通じて当時ディポヌゴロ師団司令官であった後の大統領スハルトとの人脈を築いていきます。1968年にスハルトが2代目大統領に就任してから約30年間、様々な国家プロジェクトの利権を手にし、グループを大きく成長させました。ところが、1997年のアジア通貨危機でグループは最大の危機を迎えます。

 

通貨危機により、グループの多くの企業の財務体質が悪化し、民間銀行最大手に成長したBCA(バンク・セントラル・アジア)を含む、多くの資産の売却を余儀なくされることとなりました。しかし、スドノの三男Anthony(アンソニー、中国名は林逢生)のもとで何とかグループ最大の危機は乗り切ります。そして、2013年2月、元々危機前に所有していた日産やスズキの現地合弁パートナーであるインドモービルの株式を買い戻して筆頭株主となり、また、BCAの株式も幾分か取得して復活を果たしています。

 

次のサリムグループのリーダーとして期待されているのが、アンソニーの三男であるAxton Salim(アクストン)です。アクストンは1974年生まれで、2002年にコロラド大学ボルダー校を卒業。その後、クレディ・スイスのシンガポール支店で経験を積み、2004年からサリムグループの中核企業インドフードに入社。2009年から現在に至るまでインドフードの取締役を務めています。
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左からスドノ・サリム、アンソニー、アクストン

 

 

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■シナールマスグループ

三大財閥最後は「シナールマスグループ」。創業者は、福建省泉州出身華人Eka Tjipta Widjaya(エカ・チプタ・ウィジャヤ、1923年~)で、中国名は黃亦聰(Oei Ek Tjhong)です。彼は9歳の時、インドネシアに渡ります。非常に貧しい家庭であったため、マカッサルにて小学校卒業後、15歳で砂糖やビスケットを販売するというビジネスをスタートさせていました。その後、彼は1970年にシナールマス社を設立し、一代でパームオイルやココナッツオイルなどの食用油、製紙、そして金融、保険、不動産などの事業も手がける大財閥を築き上げました。シナールマスグループは同族経営が行われており、子供たちはシンガポール、米国、カナダ、日本などに分かれて留学を経験した後、グループの各部門を担当しています。現在は、創業一家長男であり、紙パルプ事業を担当するTeguh Ganda Wijaya(テグー、1944年~)がグループのトップとなっています。

 

エカはたくさんの子供を残しており、ウィジャヤ家は非常に大きなファミリーになっています。Forbesの記事によると15人とありますが、それよりももっと多いという説もあります。前述のテグーが一族のトップとなっているものの、グループ最大の売上高を誇るパームオイル事業はテグーと14歳離れたFranky Oesman Widjaja(フランキー、1958年~)が担当しています。彼は日本への留学経験があり、青山学院大学に留学した後、パームオイル事業を担当し、さらに超高級ショッピングモールのプラザインドネシアの会長なども務めています。

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左から、エカ・ウィジャヤ、テグー、フランキー

 

 

エカの孫の世代ですが、既に頭角を現し、各部門の重要ポジションに就いています。ここでは3人の人物を紹介したいと思います。

 

-Fuganto Widjaja(フガント、1981年?~)
フガントはグループの鉱山開発事業を担当しており、PT Golden Energy Mines Tbkの社長、PT Sinar Mas Multiartha TbkとPT Dian Swastatika Sentosa Powerの取締役を担当し、昨年2015年はバクリー財閥とロスチャイルド財閥が対立しながらも共同運営されていたPT Berau Coal Energy Tbkを引き継き、同社CEOに就任しています。

 

-Michael Jackson Purwanto Widjaja(マイケル、1984年?~)
マイケルは、グループの不動産事業を統括するMuktar Widjaja(ムクタル、1955年~)の息子です。彼は2007年に当時23歳という若さでPT Bumi Serpong Damai Tbk(BSD)の副社長に就任しました。BSDはジャカルタ南西部に位置する新開発地域BSDシティの開発を行い、そこにはイオンがオープンしています。そして、2010年にはグループの不動産部門を取りまとめるSinar Mas Land(シナールマスランド)のCEOに就任しました。

 

-Jesslyne Widjaja(ジョセリン、1984年?~)
ジョセリンは、先ほども登場したパームオイル事業を統括するフランキーの娘です。彼女はシンガポール証券市場上場するGolden Agri-resources LtdのExecutive Director of Corporate Strategy & Business Development(事業開発兼経営戦略担当取締役)という重要ポストに、2014年3月から就いています。
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左から、フガント、マイケル、ジョセリン

 

Tbkは公開株式会社、上場企業を意味し、彼彼女たちはグループの複数上場企業を担当するという重要な役割を担っています。そして、まだまだ30代前半という若さです。

インドネシアの華麗なる一族たち①

「華麗なる一族」と言えば映画やドラマにもなった山崎豊子の小説であり、1965年に起こった山陽特殊製鋼倒産事件を元にしていると言われています。本作の主人公は万俵大介。大介は万俵財閥の発展のために、息子娘たちを財界の有力者と結婚させる、いわゆる閨閥施策を進めていきました。裏切り、憎悪、権力闘争などの人間ドラマがリアルに描かれた作品です。

 

インドネシアにも一族経営で発展する財閥がいくつもあります。毎年発表されるForbesの富豪番付を見ても、上位のほとんどは財閥オーナーで占められています。そして、その財閥企業は一族経営がほとんどです。実際「華麗なる一族」と似ている部分もありますし、もちろんそうでない部分もあります。本連載ではインドネシア版華麗なる一族として、現在のトップ財閥たちが今までどのように歩んできたのかを書いて行きたいと思います。

 

 

 

1842年に終結したアヘン戦争以降、清政府は海外渡航の門戸を大きく開き、移民ブームがおきました。その頃、インドネシアは植民地としてオランダによって長く統制されていた時代です。インドネシアにも多くの華人がやって来ました。後に大きな財閥グループの創設者となるような人もその時期で、インドネシア三大財閥「アストラインターナショナル」「サリムグループ」「シナールマスグループ」の創設者一族たちも、その時期に渡って来たと言われています。

 

Astra-International-Logo

アストラインターナショナル
GLOBE ASIAによる2015年インドネシア企業グループランキングで1位となったアストラグループ創設者のWilliam Soeryadjaya(ウィリアム・スリヤジャヤ、1922年~2010年)は、父親が広東省から移民した華人でした。ウィリアム自身もTjia Kian Liongという中国名を持っています。1957年、彼は仲間たちと貿易商アストラ社(現在のアストラインターナショナルの前身)を創業しました。そして、1960年代末にトヨタ自動車の総代理店になり、1971年にはトヨタと合弁でPT Toyota Astra Motor(トヨタアストラモーター社)を設立するなど、自動車産業を中心にナンバーワンへと駆け上がりました。しかし、グループとしてナンバーワンになったものの、1992年の長男Edward(エドワード)の銀行ビジネスの失敗により、一族はアストラの株式を手放さざるを得なくなりました。よって現在のアストラインターナショナルはスリヤジャヤ一族のものではありません。

 

エドワードにはEdwin(エドウィン)という弟がいました。エドウィンは1998年、Sandiaga Salahudin Uno(サンディガ・ウノ)と投資会社Saratoga Investama Sedaya(サラトガ・インベスタマ・セダヤ、通称サラトガ)を創業し会長に就任、石炭採掘パダン・クルニア(現アダロ・エナジー)も創業し、こちらも会長に就任しました。そして2014年3月、サラトガ傘下のPT Mitra Pinasthika Mustika Tbk(MPM)がPT Nissan Motor Indonesia(日産インドネシア)と提携します。実はMPMはウィリアムが1987年に創設した会社で、現在の会長はエドウィンです。これがスリヤジャヤ家の悲願であったかどうか分かりませんが、再び自動車販売のビジネスを行うことになりました。

 

そのエドウィンは現在66歳。2015年6月、ウィリアムの孫であり、エドウィンの息子であるMichael Soeryadjaya(マイケル)が、サラトガの社長(President Director)に就任し、スリヤジャヤ家のバトンを引き継ぎました。30代前半の若い経営者が次の時代を作っていきます。

アストラ
左からウィリアム・スリヤジャヤ、エドウィン、マイケル